音源

Songs

よいさのせ「石童丸」女性ボーカル

よいさのせ「いしどうまる」

高い山−草津節女性ボーカル

たかいやま(くさつぶし)

砂かき「鈴木主水橋本屋白糸口説き」女性ボーカル

すなかき「すすきもんどはしもとやしらいとくどき)

てんがらこ「国定忠次侠客口説き」女性ボーカル

てんがらこ「くにさだちゅうじきょうかくくどき」

歌詞

Lyrics

「石童丸と苅萱道心くどき」

過ぎし昔のその物語り、国は紀州にその名も高き、峯に紫雲のたなびきまして、高野山とて尊い山よ、あはれなるかや石童丸は、かかる難所をたどたど歩み、顔も知らざる父上様が、茲のお山におわすと聞きて、尋ねさまよく行谷道の、跡や先なる右手は岩間、左手はあまのきそ山おろし、不動阪をば見上げて通る、鳥も通わぬまるき橋渡り、心細道たよりの杖で、身をまかせて行く先き問えど、岩根の松の木かげに、腰打ちかけてやすらい給う、加藤左衛門重氏様は、髪をおろして名も苅萱と、替えて佛法修業のために、昼夜に限らず此の山坂を、たどり行くのも皆後の世の、親子奇縁か石童丸は、側に思わず立より給い、申上げます御出家様よ、茲の御山に今道心の、おわしますなら教えてたべと、聞いて苅萱御坊のおほせ、昨日剃ったも今道心、去年剃ったも今道心よ、おん身尋ぬるその人さんの、俗の名を言い尋ねてよかろう、尋ねますのは父上様よ、我等二つのその年別れ、元は筑紫の松浦とうよ、加藤左衛門重氏様と、聞いておどろく我子であるが、すでに取り付き玉わんものと、思う心をようよう静め、御佛前にて誓いを立てし、事は此処ぞとよそよそしくも、年も行かぬに遙々此処へ、したい来りしその志し、まこと父上聞かれたならば、さぞやうれしく飛び立つばかり、思い玉わんたりとてはまだ、此の御山のならいと云うは、たとえめぐり逢うたればとて、名乗り会う事かってにならぬ、早く故郷へ立ち帰られよ、母御大事にかしずき玉へ、是が一ツの孝行なりと、教えさとせば石童丸は、国の大内に攻めなやまされ、母もろとも此のふもとまで、父を尋ねて参りしなれば、道のつかれにわずらいまして、命あるうち父上様に、一目逢いたい見たいとなげき、憐れなる者と思われ給い、父の在所を御存じならば教え玉えと目に持つ涙、おさえ兼ねたるその有様を、見るに苅萱心のうちで、我が親ぞと名乗らんものと、いとも尊き師のいましめと、言うてはるばる尋ねて来たに、知らぬ顔なり見ぬ顔なれば、不愍まさりて何うなるものと、胸に堰き来る血の涙をば、こらえ兼ねてぞ思わずワッと声を立ててぞなげかせ玉う、なさけサアヱーない世の境界を、思い出せば様々かわる、吾ぼんぞくの昔を捨てて、出家堅固で此年月を、送る中にも吾が妻や子に、最早今年でいくつになると、年じゅくりてはその事ばかり、思うところを今日此の道で、廻り廻りて我子に逢うは、よもや佛も御存じなかろ、親子は一世と聞き傳ゆれば、たった一と言もの云いたいが、立てし誓いは破りもされず、爰で逢われぬ事ならなおも、未来へ行けば逢うことならず、何んと仕ようか何うようものと、胸にむせびて心の内は、泣かぬ顔ぞなおまたつらき、それとサアヱー石童丸は、左様お歎きなされる上は、若しゃ貴様が父上様か、早う聞かせて下さりませと、袖にすがれば重氏様は、共に引かるる恩愛ゆえに、既に親ぞと心も乱れ、今になのりて聞かせん者と、思う心を後ろの山の、岩の影より声高らかに、きおんにうむいの誓を忘れ、給うまいぞと師の教訓に、前後忘れし苅萱ひじり、夢の心地に聞えし故に、ふと気が付き振帰り見て、まよいましたよあやまりました、今此三界悉是吾子よ、いずれ我子と思いましょうか、誠に師匠に面目なしと、きたる衣の袖打ち拂い、おん身たずねる重氏どのは、慈のお山におわせしなれど、諸国修業に出させ玉い、今に行衛も知れざる程に、いっそ下山し母上様の、病気かいほうめさる、がよかろう、聞いて石童涙を流し、情ないぞやのうあさましや、父は御山におわしもせずに、行衛知れずと成り玉うかや、それはともあの母上様が、こがれ死にでもなされうならば、何んとしようかそればっかりが、私しゃ悲しい御出家様は、人を助ける役目と聞けば、哀れ不愍とおぼしめされて、父に似よりの人でもあれば、何卒逢わせて下さりませと、くどき悲しむ心のうちを、思いやられて苅萱ひじり、共にはりさく思いをかくし、帛紗包の薬を出して、是は師匠が一万たびの、ごまをたかれて調合ありし、まこととうとき妙薬なれば、母に用いて看病あれよ、そのや道すじ難所であれば、つかれ足では中々行けず、こちら廻れば花阪と云うて、平地とどうぜん馬籠あるよ、急ぎ御山を下るがよいと、心づよくも石童丸を、涙ながらにおき去りなさる、薬ちからにおしいたヾいて、是非もなくなく別れて帰る、道に必ず迷わぬように、彼方此方の事こまやかに、教えながらも苅萱どのは、心もとなく気ずかいつつも、縁にひかるる共つな故に、見えてかくれつ分れ行く。


高い山−草津節

○たかーい山かーらー 谷底見ればのー
ア ソレカラソレカラ
瓜やアなすーびーのー花ざーかーりよ
アレワイドンドンドン
コーレモドンドンドン
○高い山からお寺を見れば
お寺さみしや小僧一人よ
○高い山からムスビが転ぶ
カラスそれ見て羽根そらすよ
○高い山の雪ゃ朝日で溶ける
娘島田は寝てとけるよ
○高い山からデンギが転ぶ
カガツよろこべ味噌すらしよ
○高い山から米子を見れば
白い笠着て綿つみやるよ
○高い山から低い山見れば
低い山より高ござるよ


砂かき

私しやナー旅者通りがけの者チョイトチョイ この場に立寄りお邪魔でござる
サーヨイトサッサーヨイトサッサー(以下同)
私しゃナー当所がはじめでござる
当所お作法はよく知らねども
一つ拾いたる其豆に
土がつかいぢゃかのやせぬ
二つ踏んだる其豆が
平にならいぢゃかのやせぬ
三つ味噌屋の其豆は
色がつかいぢゃかのやせぬ
四つよったる其豆に
くずがあってはかのやせぬ
五ついったる其豆は
腹が切れいぢゃかのやせぬ
六つむいだる其豆に
皮があってはかのやせぬ
七つなったる其豆に
さやがつかいぢゃかのやせぬ
八つ焼いたる其豆に
灰がつかいぢゃかのやせぬ
八つ買うたる其豆に
金が入らいぢゃかのやせぬ
十でとぎたる其豆に
ごみがあってはかのやせぬ


鈴木主文橋本屋白糸くどき

花のお江戶のその側らに、聞くも珍らし心中ばなしアラサッコラサッ 所は四ツ谷の新宿町よ、紺の暖簾に桔梗の紋はアイサッコラサッ(以下同)音に聞えし橋本屋とて、あまた女郎衆のあるその中に、※お職女郎の白糸こそは、年は十九で当世育ち、愛嬌よければ皆人さんが、我も我もと名指して上る、別けてお客はたれぞと聞けば、春は花咲く⻘山辺の、鈴木主水という待よ、女房持ちにて二人の子供  五ツ三ツは悪戯ざかり  二人子供のそのある中で、今日も翌日もと女郎買いばかり、見るに見かねて女房のお安、ある日我が夫主水に向い、これさ我が夫主水様よ、わたしゃ女房で嫉くのぢゃないが、子供二人は伊達には持たぬ、十九や二十の身じゃあるまいし、人に意見もいう年頃に、止めておくれよ女郎買いばかり、金のなる木を持ちゃさんすまい、どうせ切れるの六段目には、連れて逃げるか心中するか、二ツ一ツの思案と見える、しかし二人の子供が不憐、子供二人とわたしの身をば、末はどうする我夫様よ、いえば主水は腹立ち顔で、なんの小癪な女房の意見、己が心で止まないものを、女房だてらの意見じゃ止まぬ、愚痴な其方より女郎衆が可愛い、それがいやなら子供を連れて、其方のお里へ出て行かしゃんせ、愛想づかしの主水のことば、そこで主水はこやけになりて、出でて行くのが女郎買い姿、お安それ聞き悔しさまして、いかに男は我侭ぢゃとて、死んで見せようと覚悟はすれど、二人の子供についひかされて、死ぬにゃ死なれず歎いておれば、五ツなる子が側へと寄りて、これさ母さんなぜ泣かしゃんす、気色悪るけりゃお薬あがれ、どこぞ痛くばさすってあげよか、坊が泣きます乳くだしゃんせ、言えばお安は顔ふりあげて、どこも痛くて泣くのじゃないが、あさなけれどもよく聞け坊や、あまり父様身持がわるい、意見いたせば小癪な奴と、たぶさ摑んで打擲なさる、さても無念の夫の心、自害しようと覚悟はすれど、跡に残りしわれ等が不愍、どうせ女房の意見じゃやまぬ、さればこれから新宿町の、女郎衆たのんで意見をしようと、三ツなる子を背中に背負い、五ツなる子の手を引きまして、出て行く姿のさもあわれなる、行けば程なく新宿町よ、店の暖簾は橋本屋とて、見れば表に主水の草履、それと見るより新造を招き、妾は比方の白糸さんに、どうぞ会いたいあわせておくれ、アイと新造は二階へ上り、これさ姉さん白糸さんよ、どこの女中か知らない方が、なにかお前に用ありそうな、会うてやらんせ白糸さんと、いえば白糸二階をおりて、妾を尋ねるお女中と言うは、お前さんかえ何用でござる、言えばお安ははじめて会うて、妾は⻘山主水が女房、お前見かけて頼みがござる、夫の主水は勤めの身分、日々の勤めを疎にすれば、末はご扶持に離るる程に、ここの道理をよく聞き分けて、何ぞ我夫主水殿に、意見なされて白糸さんよ、せめてこの子が十にもならば、晝夜あげづめなさりょうとままよ、または妾しが去られた後で、お前女房にならんすとても、どうぞこの後主水殿が、三度来たなら一度はあげて、二度は意見をしてくだしゃんせ、言えば白糸言葉に詰まり、妾しゃ勤の身の上なれば、女房もちとは夢にも知らず、ホンニ今まで懇親なれば、さぞや憎かろお腹も立とう、わたしもこれから主水様に、意見しましょうお帰りなされ、言うて白糸二階へあがる、あとで二人の子を引き連れて、お安は我が家へ引帰りける、ついに白糸主水に向い、お前女房が子供をつれて、妾に頼みに来ました程に、今日はお帰りやめては済まぬ、言えば主水は莞爾と笑い、置いておくれよ久しいものだ、ついにその日は居続けなさる、待てど暮らせど帰りもしない、お安子供を相手にいたし、もはやその日は早や明けたれば、支配方より使がありて、主水身持ちがふらちぢゃ故に、扶持も何かも召上らるる、後でお安は途方に暮れて、あとに残りし子供が不憐、思案しかねて当惑いたし、扶持にはなれて永らく居れば、馬鹿なたわけと言われるよりも、武士の女房じゃ自害をしようと、二人子供を寝かせて置いて、硯とり出し墨より流し、落つる涙が硯の水よ、涙止めて書置いたし、白い木綿で我が身を巻いて、二人子供の寝たのを見れば、可愛い可愛い児にひかされて、思いきり刃を逆手に持ちて、グッと自害の刃の下に、二人子供は早や目をさまし、三ツなる子は乳にとすがり、五ツなる子は背中にすがり、コレサ母さんノーウ母さんと、幼な心で早や泣くばかり、主水それとは夢にも知らず、女郎屋立ちいでほろ酔い気嫌、女房ぢらしの小唄で帰り、表口より今帰ったと、子供二人が駆け出でながら、モウシ父様お帰りなるか、何故か母さん今日に限り、言も言わずに一日お寝る、ホンに今まで悪戯したが、御意は反かぬノウ父様よ、何卒託してくださりませと、聞いて主水は驚きながら、あいの唐紙サラリと開けて、見ればお安は血潮にそまる、俺の心が悪いが故に、自害したかよ不憫なことよ、涙ながらに二人の子供を、膝に抱きあげ可愛や程に、何も知るまいよく聞け坊や、母はこの世の暇じゃ程に、言えば子供は死骸にすがり、モウシ母さん何故そうなさる、坊や二人は何うしましょうと、歎く子供を振り捨ておいて、且那寺へと急いて行く、戒名賞うて我家へ帰り、哀れなるかや女房の死骸、莚に包んで背中に負うて、三ツなる子を前にと抱え、五ツなる子の手をひきながら、行けばお寺で葬りまする、ぜひもなくなくわが家へ帰り女房お安のかき置見れば、あまり勤めの放埓故に、扶持も何にかも取り上げられる、其の上門前払いと読んで、偖も主水は仰天いたし、子供泣くのをそのまヽおいて、急ぎ行くのは白糸方へ、これはお出でか主水様よ、したが今宵はお帰りなされ、言えば主水はそれ物語る、襟に懸けたる戒名出して、見せりゃ白糸手に取り上げて、妾の心が悪いが故に、お安さんへも自害をさせた、さらばこれから三途の川も、手を引きますぞえお安さん、言えば主水は暫しととどめ、俺もお前と情死をしては、親方さんへ言い訳たたぬ、お前死なずに永らへさんせ、二人子供を成⻑させて、回向頼むよ主水様と、言うて白糸一と間へ入りて、数多朋輩女郎衆を招き、ゆづり物とてくしこうがいを、やれば小春は不思議に思い、これさ姉さんどうした訳か、今日に限ってゆづりを出して、夫にお顔もすぐれもしない、言えば白糸よく聞け小春、わしは幼き七つの年に、人に売られてこの廓で、つらい勤めも早や十二年、勤めましたよ主水様に、日頃三年懇親したが、今度妾し故ご扶持に離れ、またも女房に自害をさせて、それで妾が永らえ居れば、お職女郎の意気地が立たぬ、死んで意気地を立てねばならぬ、早くそなたも身ままになって、妾しが為にと香花頼む、言って白糸ひと間へ入り、口の中では只独言、涙ながらにノウお安様、妾故にと命を捨てて、嘸やお前は無念であろう、死出の山路も三途の川も、共に妾が手を引きましょと、南無という声この世の別れ、あまた女郎衆のあるその中で、人に情の白糸さんが、主水様故命を捨てる、名残り惜しげに朋輩衆が、別れを惜しみてなげくも道理、今は主水も詮方なさに、忍び密かに我が家にかへり、子供二人にゆずりをおいて、すぐにそのまま一室に入り、重ね重ねの身の誤りに、我と我身一生すてる、子供二人は取残されて⻄も東もわきまえ知らぬ、おさな心のあわれな者よ、あまた情死もあるとはいえど、義理を立てたり、意気地を立てて、心会うたる三人ともに、聞くも哀れなばなしでござる。
「哲⻄の⺠謡」より


てんがらこ

○アイサコリャ コリャコリャ待ちなされ
アイサコリァサ
○待てと声かけ失礼じゃあれど
今の音頭さんのたばこの間アイサコラサ
○少々ばかりの声継ぎまする
どうか皆さんよろしゅにゃたのむアイサコラサ
○今の音頭さんはいづこじゃどちら
声もよう出る節ゃうらやかにアイサコラサ
○今の音頭さんの声ほめましょか
四季の景色で申そうなればアイサコラサ
○春の景色であのほめるなら
梅の木小枝で鳴くうぐいすよアイサコラサ
夏の景色であのほめるなら
高い森木で鳴く蟬の声アイサコラサ
○冬の景色であのほめるなら
細谷小川で鳴くニナの声アイサコラサ
○笛か太鼓か胡弓か三味か
まだもほめればほめよがあれどアイサコラサ
○あまりほめればそしるにあたる
ちょいとここらでやめおきまする
アイサコラサ
○次の音頭さんにゃおゆずりまする
どうか音頭さんよ出て来ておくれアイサコラサ
○どうか出て来てつぎなされ
わたしゃやめますこの口かぎりアイサコラサ
○どうか踊る衆にお願いまする
どうか出て来て声継ぎなされアイサコラサ


国定忠次俠客くどき

今度珍らし俠客くどき、国をくわしく訪ねて聞けば、国は上州吾妻郡、音に聞えし国定村よ、そのや村にて一二といわれ、地面屋敷相応なもので、親は忠兵衛という百姓で、二ばん息子に忠次というて、力自慢で武術が好きで、人にすぐれし剣術なれば、親は見限り是非ないことと、近き、終に博徒の親分株よ、子分子方もその数知れず、一の子分は甲州無宿、甲斐の近とて日の出の男、それにつづいて朝おき源五、又も名高き坂東安二、これが忠次の子分の中で、四天王とて呼ばれし男、頃は弘化の丙の午の、秋の頃より大小屋かけて、夜の日のも分ちはなくて、博奕渡世で月日を送る、餘り悪事が増⻑ゆえに、今はお上の耳に入りて、数多お手先きその数知れず、上意上意とその声高く、今は忠次の身の置所、是非に及ばず覚悟をきめて、子分子方も同意の覚悟、鉄砲擔いで⻑脇差で、種ヶ島へと火繩をつけて、三ツ木山にて捕手にむかい、命かぎりの働きなどと、忠次つきそう女房のお町、跡につヾいて妾のお鶴、どれも劣らぬ力量ものよ、髪は下がみ⻑刀もって、今を限りと戦うなれど、子分四五人召捕られては、今は忠次もハヤたまらじと、危うけれども覚悟を極め、越後信濃の山越えしようと、いずく共なく逃よとすれど、跡につき添う二人の女、命かぎりに逃行くほどに、今度忠次の逃げ行く先は、国は何処とたずねて聞けば、之も東国上州なれど、赤城山と高山ござる、駒もかよわぬ鴬谷の、野田の森にと籠てすめば、又も役人不思議なことに、手先き手先きをおあつめなされ、頭ら忠次を召捕えんと、もよりもよりへ番小屋かける、今は国定途方にくれて、女房お町とめかけに向い、例会お上へ召捕われて、重い刑罰いといはせぬが、残るこなたが不愍なままに、さらばこれより国越えせんと、残る子分に二人を連れて、音に聞えし大戶の関所、忍び忍びて信濃の国へ、忍びかくれて八年あまり、⻤も欺く国定なれど、運の盡きかや病気がいでて、今はぜひなく故郷へ戻る、隣り村にて五名井の村の、後家のお徳に看病たのむ、このやおとくの以前というは、日光道中玉村宿で、数多のお客の勤めをすれど、忠次さんには恩ある故に、例会この身はどうなるとても、どうぞ病気を本復させて、もとのからだにひだててやろと、神や佛に願望かけて、雨の降る日も風吹く夜も、はだし参詣をいたされまして、茶だち塩だち水ごりとって、一生懸命祈ったけれど、天の罰かなお上へ知れて、お取しまりのお手先衆は、上意上意の声かけられて、女房妾女や忠次にお徳、それにつづいて子分に名主、以上七人召捕われて、ついにこれらは軍鶏籠よ、支度出来たできびしく守り、花のお江戶へ差送られる、音に聞えし国定忠次、江戶の役所でご詮議うけて、あまり吟味が厳しい故に、殊に病気の最中なれば、ぜひに及ばず一つの悪事、これを白状いたした故に、関所破りのそのとがめやら、木曽の道中臼井のうらで、大戶ばんしょの狼谷で重いお仕置かけられました、これを見る人聞く人さんよ、男女子供のいましめよヤンレー。
「哲⻄の⺠謡」より

基本情報

Metadata

伝承地哲西
伝承者津村安子 難波和子
年代2024
録音者水上則計
詞型7777
メモよいさのせ

解説

Commentary

「よいさのせ」は七七七七を詞型とした盆踊り。新見では哲⻄、神郷(「大踊り」と呼ばれる)、哲多で踊られる。広島の一つ拍子に少し似ている。特に広島東條の「大踊り」ではお囃子もほとんど同じ。広島県庄原の町指定無形文化財「湯木の盆踊り」の「弓引き」ともほぼ同一。


哲⻄の盆踊り

旧盆の16日を中心に各地でさかんにおどりがあった。哲多町蚊家の天王さん、哲⻄町矢田の金毘羅さん、大竹二本松峠の天神さんと若い者はどこまでも出かけた。おどりが済んで家に帰るころはもう夜も明ける。そのまま寝ずに山草刈りに出かける者もいた。草刈鎌を振りながらおどりの練習をしたという。夏のレクリェーションとして他に娯楽ができたり、歌をくどく人もいなくなったことが衰えて行く原因でもあろう。

盆踊にはいろいろな種類があって、それぞれ踊り方が違う。主なものは、高い山よいさのせ砂かきてんがらこ山づくし田植踊関の五本松磯節古代詞などである。この中で田山づくし・田植踊・関の五本松・磯節・古代詞などである。この中で田植踊は現に「哲⻄の踊り」として、阿哲新見地区郷土芸能大会などに出演し好評をはくしている。また「古代詞」は神楽に歌われる「ヤンサ」を盆踊りにしたもので、扇形に広がったり、縮んだりの変化のある踊りで、東城などへこちらから行って踊っても、「古代詞」と「砂かき」の踊りはよその人たちは知らなかったという。
「哲⻄の⺠謡1」より

「高い山から」の歌詞は、中世に大流行した小歌の歌詞で、全国に分布残存しています。この歌詞からも、新野の盆踊りが中世から近世の早い時期にかけて多くの歌や踊りを取り入れてきたことがわかります。
WEB「盆踊りの世界」より


鈴木主水(すずきもんど)

江戶後期の武士。江戶⻘山百人町に住み、妻と二人の子があったが、享和元年(一八〇一)、内藤新宿橋本屋の遊女白糸と情死したと伝えられる。その事件を素材に作られた唄が幕末に流行唄となり、瞽女(ごぜ)唄や盆踊唄にはいり、戯曲化された。

信濃国上田城主・真田昌幸の家臣として、上野国名胡桃城の城将を務めたとされる人物。真田信之(信濃国上田藩初代藩主)の家臣であった鈴木忠重(右近)は、鈴木主水の子とされる。

『加沢記』などの軍記物には下記のように記されている。

名胡桃城(真田昌幸領)の城将であった鈴木主水[注釈1]は、天正17年(1589年)に猪俣邦憲(上野国沼田城〈後北条氏領〉の城将。真田昌幸と敵対していた後北条氏の、上野国方面指揮官である北条氏邦の家老)によって名胡桃城を奪われた(名胡桃城事件と呼称される)。鈴木は後北条氏に偽って降伏し、隙を狙って猪俣を殺害しようと企み、沼田城下の正覚寺(群馬県沼田市に現存)に逗留したが、企図が発覚して同寺で自決した。

名胡桃城事件は、翌年の天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐、後北条氏の滅亡の直接の原因となった。

しかし同事件の経過を具体的に伝える一次史料は存在せず、詳細は不明である。

そして「鈴木主水」に言及した一次史料が存在しないため、「鈴木主水」なる人物の詳細、「鈴木主水」なる人物の実在は不明である。「鈴木主水」が自決したとされる正覚寺には「鈴木主水の墓」と伝わる墓が存在するが、別人の墓ではないかという指摘を受け、かつて設置されていた案内板は撤去されている。


砂掻き(または、さんこ)

新見市の盆踊りの中で一番軽快なナンバー。

踊りの中に足で砂(地面)を後ろに掻く動作があるためという説がある。古い型のさんこ節※から派生したのではとも考えられている。

※淀江さんこ節の起源は諸説あるが、淀江は古くから港町として栄え、北前船で寄港した船乗り衆が歌う各地の⺠謡と、淀江古来の⺠謡が融合して誕生したと言われている。幕末から明治にかけて、港町淀江の酒席で大流行した郷土⺠謡で、三味線・太鼓などに合わせて賑やかに歌われ、七七七五調の歌詞は今もなお、古い調べを残している。やがて、軽快な曲のテンポに合わせて、左官さんが土壁を塗りあげる情景を滑稽に演じる仕種踊り「壁塗りさんこ」が踊られるようになり、酒席だけでなく、棟上げや結婚などの祝宴でも披露されるようになったと考えられる。その後、和傘の産地としても知られる淀江では「傘踊り」「銭太鼓」も取り入れられてきた。淀江さんこ節はお座敷唄だけでなく、盆踊り唄、子守り唄、田植え唄などもあったと伝えられ、労働歌としての側面も持つ唄と言える。
鳥取伝統芸能アーカイブス


新見の盆踊りは昭和6年の時点で、

北部:ばんば、横田、やまづくし○、やんさ、扇踊り○(以上最も古く踊られているもの)安来節、高い山○、ひがし○、てんがらこう○(明治三十年ごろ南部より入った)

南部中⻄部は:てんがらこう○、山づくし○、まんまん、四つ拍子、よいさのせい○、砂かき○、松山踊(数え歌踊り)、安来節、高い山踊○、しょこほい踊、備前踊り、影絵節踊、出雲踊、祇園踊

「阿哲群誌」より
○のものは現在でも踊られているもの


国定忠治(くにさだちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年)-嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎。

後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となった。特に新国劇の『國定忠治』は劇団の財産ともなり、劇団解散まで繰り返し上演された。赤城天神山の場での台詞「赤城の山も今夜を限り」は歌舞伎の決め台詞ばりに普及した。

父は上野国(群馬県)佐位郡国定村の中農与五左衛門。

17歳のとき人を殺し大前田英五郎の許に身を寄せ、博徒の親分として売り出す。博奕を業とするが、縄張りのためには武闘を辞せず、子分を集めて私闘を繰り返した。

天保5(1834)年島村伊三郎を謀殺したことから関東取締出役に追われる身となり、以降一貫して⻑脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、関東通り者の典型となった。

逃亡、潜伏を繰り返すうち、同7年信州の義弟兆平を殺した波羅七を討つため大戶(群馬県)の関所を破ったり、同13年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋の三室勘助を、子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど幕府のお膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。

逃亡、潜伏を支えたのは一家の子分の力もあるが、忠治をかくまった地域⺠衆の支持もあった。

伝承によれば、同7年の飢饉(天保の大飢饉)に私財を投じて窮⺠に施したり、上州田部井村の名主⻄野目宇右衛門と語らい博奕のあがりで農業用水の磯沼をさらったりした。

忠治は幕府にとって文武の敵となった。

嘉永3(1850)年夏、潜伏先の国定村で中気となり隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中捕らえられ、江戶に送られ勘定奉行の取り調べの上、罪状が多すぎるため最も重い関所破りを適用され、磔と決まった。磔に当たっては、刑場大戶まで威風堂々と道中行列を演技し14度まで槍を受けて衆目を驚かせた。忠治の対極にいた幕吏(代官)羽倉簡堂は『劇盗忠二小伝』(『赤城録』)を著して、凡盗にあらずして劇盗と評した。

死後の忠治は、時代が閉塞状況となるたびに国家権力と戦う⺠衆のヒーローとして映画や芝居などを通して甦った。

WEB國定赤城神社より


てんがらこ(う)

新見全土を中心に、広島神石高原町、鳥取日野町、真庭郡新庄村などでも踊られる。

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