音源

Songs

てんまるさんと千代さんと

てんまるさんとちよさんと

歌詞

Lyrics

(1887年頃から)
てんまるさんと千代さんと
はじめて熊野に参たなら
熊野のお坂で日が暮れて
木の葉(こっぱ)のお坂で宿とって
朝つき起きて空見れば
西の太鼓もドンドンと
東の太鼓もドンドンと
やれやれいきたや 参りたや
これほどいきたいことならば
隣のばあさん頼んで
帷子(かたびら)一枚かしとくれ
あるものないいうてかせなんだ
やれやれ腹立つ ごう悪や
これほどお腹の立つ時に
うちの二階に旗揚げて
今日もいったんちゃんころりん
明日もいったんちゃんころりん
明後日もいったんちゃんころりん
中のこうやへいったんと
東のこうやへいったんと
西のこうやへいったんと
染めておくれや高野山
染めてあげるは なに染めに
襟と肩には 梅の折枝
中がごでんの染め分けに
ちょっと百ついた また百ついた

基本情報

Metadata

伝承地哲西町川南
伝承者賀島飛左
年代1969/3/9
録音者立石憲行

解説

Commentary

伊予宇和島地方にある「千松の歌」はつぎのようにうたわれている。

この家の背戸のチサの木に 雀が三羽とうまって 前なる雀はもの知らず
後なる雀ももの知らず いつちのなかの小雀が 物をちゃんちゃんよく知って
シロ三枚ゴロ三枚 合わせて六枚しきつめて けっこうな嫁女をよんできて
金襴緞子を縫わすれば なにが悲しゅうて泣かしゃんす
わたしの弟の千松は 七つ八つから金山(かなやま)へ金がないやら死んだやら
一年待てども状がこん 二年待てども状がこぬ 三年三月で状がきた

この「千松の歌」は、伊達騒動の浄瑠璃劇「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の千松の歌と似ているという。

おもいまわせばこのほどから うとうた歌に千松が
七つ八つから金山へ 一年待てどもまだ見えぬ
二年待てどもまだ見えぬ 歌のなかなる千松は
待つかいありて父母に 顔をみせることもある
おなじ名のつく千松の そなたには百年待ったとて
なんのたよりがあろうぞい。

千松の名は鶴千代君のお相手をした乳人政岡の子千松で、この千松がうたう雀の歌に、


こちらの裏のチサの木にチサの木に
雀が三羽とうまってとうまって
一羽の雀のいうことにゃいうことにゃ
腹がすいてもひもじゅうない

というのがあり、狂言作者は、伝説金山行の千松という「チサの木」の童謡をとりいれて、


七つ八つから金山へ 一年待てどもまだ見えぬ
これ乳母まだ飯ができぬのか 二年待てどもまだ見えぬ
かかさま飯はまだかいのう

とうたった。仙台領金山の経営は、秘密にされ、金山へ金堀りにやらされた多くの少年のなかには、年期をかぎって働らきにだされたにもかかわらず、帰ってこないばあいも多かったようである。そこに「わたしの弟の千松は、七つ八つから金山へ、金がないやら死んだやら」の千松伝説をとりいれた「チサの木」童謡がうまれたわけであろう。

じっさいの千松童謡は、竹久夢二の集めた「うちの隣りの千松は近江のいくさにたのまれて」という近畿地方の歌のとおり、近江の戦争(木曽義仲が土民の子を傭兵として粟津ヶ原の戦いに徴発した)に強制的にかり出された少年傭兵のすがたをうたったもの(藤沢衛彦著こども歳時記)という。

四国から中国地方にくると金山(きん)がかね堀り(砂鉄)にかわっていることはおもしろい。

備中北部の哲西町や備後地方は全国的砂鉄の産地であった。青森地方では、お手玉唄になっている。なお千松の歌にある「チサの木」は「えごの木」の方言。(哲西町では「チナイ」という)万葉集に「知左(ちさ)」とか「治左(ぢさ)」と記されているそうである。落葉樹で山野に多く、花は白色、2cmほどの球形の実をつけ、小鳥たちの好物となった。

未熟のときは、生の果皮をつぶして川に流し、魚をまひさせてとるのに用いられた。

芝居の千代萩に出てくるチシャノキは、この「えごのき」だという。(牧野新日本植物図鑑)
「哲西の童歌」より

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