
音源
Songs
田植え歌/大山登りの歌/ねり歌
たうえうた/だいせんのぼりのうた/ねりうた
歌詞
Lyrics
大山登りの歌
○大仙の(ヤーハーレナー)三里が横手に(アラサノコラサイ)かかりしが(ヤーハーレナー)かがりしが(ヤー
ハレー)
かがりしが(ヤーハーレー)清楽院にゃ近くなる
○大仙の清楽院のそのもとに
唐金鳥居が立ててある
○大仙の鳥居がかけたる〜(?)美しや
金なる文字で美しや
ねり歌
◎飛田の工匠 武田が番匠 建てたる堂は
□伯耆の国の 大山の地蔵堂は ひわだ葺き
ひわだぶき ⻩金の垂木にひわだ葺
□伯耆の国の 大山の地蔵堂は ひわだ葺き
ひわだぶき ⻩金の垂木にひわだ葺
(本調子に戻る)
○大山の地蔵堂の垂木は美しや
⻩金の垂木で美しや
○大山の下山の金の御幣こそな
わしらも拝んだよ 金の御幣
(エンディング)
○とびとび舞い上がれ
それをついでに腰をしよう
「哲⻄の⺠謡」より参照
基本情報
Metadata
伝承地 | 哲西 |
---|---|
伝承者 | やよい会 |
年代 | 1960年代ごろ |
録音者 | 名越軍治 |
詞型 | 本節(上)5755,(下)575 |
解説
Commentary
大正5年当時16才だった八鳥の毛利繁さんは、野馳小学校の用務員をしていた名越万太郎さんについて太鼓を入れた田植歌の伝承をうけた。
先ずその年、田植太鼓を購入した。45円であった。つけさげ(側についてくれるさげ)なしに田に入った。歌の文句が覚えられないので歌本を太鼓にくくりつけて、一つの歌詞を3回~5回繰り返し、一日に500ばかり歌ったそうである。後、下野部の佐伯一雄さん、畑木の栃木国雄さんのものなどを、受継いで数をふやし、また東城町川東に細川という年寄りを訪ねて、「ズン蟹」調も習った。そのころ畑木では太鼓田がおこなわれていたが、八鳥ではそれがなかったので、もっぱら針金節や、太鼓をともなわない田植歌を唄っていた。正月の内に田植寄合(相談の会合)が開かれ、くじで太鼓田(太鼓をたたいて行う田植)の日どりがきめられた。今は太鼓は行われなくなったが、生木部落ではこの風習を残そうと毎年おこなうことにしている。早乙女が一列に並び、その前にサゲが対向し、綱を引いて後へ後へと植えてさがる。腰が痛くなればタバコ(休憩)をさせ、若早乙女が植え遅れると、右から左へ、左から右へと指図して、一せいに綱がひけるように気を配る。また張り田(植田の面積が多くてその日のうちに作業が終り難い場合。つまり仕事が張るとき)のときは太鼓の調子を速めて能率を高めるなどサゲの役目は重要であった。
歌は朝の歌からはじめられ田の神・田主・京登りなどの役歌や、段事(物語り)が本調子・半かけ・四半かけ・ねり歌と変化をもってうたわれ、早乙女がたいくつしないようになっている。
「哲⻄の⺠謡1」より