音源
Songs
てんがらこ「鈴木主水」白糸口説き
てんがらこ「すずきもんど」しらいとくどき
てんがらこ「鈴木主水」白糸口説き
てんがらこ「すずきもんど」しらいとくどき
てんがらこ「八百屋お七」
てんがらこ「やおやおしち」
てんがらこ「躄勝五郎初花くどき」
てんがらこ「いざり かつごろうはつはなくどき」
歌詞
Lyrics
鈴木もんど (白糸口説き)
八花のお江戶の そのかたはらに
さてもめずらし しんじゅう話
ところ四ッ谷の 新宿町の
こんののれんに ききょうの紋は
音にきこゆし 橋本屋とて
あまた女郎しゅの あるそのなかに
おしょく女郎の 白糸こそは
きりょうのよいこと 卵に目鼻
立てば芍薬 すわれば牡丹
歩く姿は こりゃ柳腰
眉は三日月 細口笑顔
齢は十九で 当世の育ち
きりょうがよいので 皆人さんが
我も我もと 名ざしでござる
わけてお客は どなたと聞けば
春は花咲く ⻘山へんに
鈴木主水と 言う侍は
女房もちにて 二人の子供
五つ三つの いたずら盛り
二人子供の そのあるなかに
今日も明日もと 女郎かいばかり
見るにみかねた 女房のお安
ある日わが主 もんどさまに
これさわがつま もんどさまよ
私しゃ女房で やくのじゃないが
子供二人は だてにはもたぬ
十九や二十の 身じゃあるまいし
ひとにいけんも しなさるころに
やめて下さい 女郎かいばかり
金のなる木は もたしゃんすまい
どうせきれるの 六だんめには
つれてにげるか 心中するか
二つに一つの 思案とみえる
しかし二人の 子供がふびん
こども二人と わたしが身をば
すえはどうなる もんどさまよ
言われてもんどは 腹立ち顔で
なんのこしゃくな 女郎かい意見
己の心で やまないものが
女房ぐらいの いけんじゃやまぬ
愚痴なそちより 女郎しゅが可愛い
それがいやなら 子供をつれて
そちのおさとへ 出てゆかしゃんせ
愛想つかしの もんどのことば
なおももんどは 小やけになりて
いでてゆくのは 女郎かい姿
あとでお安は さてくやしがお
いかに男の 気ままじゃぁとて
死んでみせよと 覚悟はすれど
五つ三つの 児にひかされて
死ぬに死なれず なげいておれば
五つになる児が そばへとよりて
これさ母さん なぜなかしゃんす
きしょく悪けりゃ お薬あがれ
どこぞ痛けりゃ さすってあげよ
坊は泣きます 乳やらしゃんせ
言えばお安は 顔ふりあげて
どこもいたくて 泣くのじゃないよ
幼けれども よく聞け坊よ
あまり父さん 身もちが悪い
いけんいたせば 小しゃくなやつと
たぶさつかんで ちょうちゃくなさる
さても残念 夫の心
自害しょうかと かくごはすれど
あとに残りし 子供がふびん
どうせ女房の いけんぢゃやまぬ
さればこれから 新宿町の
女郎しゅたのんで いけんをしよと
三つになる児を 背中に負うて
五つになる児の 手を引きまして
出てゆくのも さもあわれなり
ゆけばほどなく 新宿町の
店ののれんに 橋本やとて
見れば表に もんどのぞうり
それをみるなり 小しょくをまねき
わたしゃ こちら白糸さんに
どうぞあいたい あわしておくれ
アイと小しょくは 二かいへとあがり
これさ ねえさん白糸さんよ
どこの女中か 知らないかたが
何かおまいに 用ありそうに
逢うてやらんせ 白糸さんよ
言えば白糸 二かいをおりる
わしをたづねる 女中というは
お前さんかい なにようでござる
言えばお安は はじめて逢うて
わしは⻘山 主水の女房
おまい見かけて たのみがござる
もんど身分は つとめのある身
日々につとめを おろそかにすれば
すえはお扶持に はなるるほどに
ここのところ ききわけられて
どうぞわがつま もんどさまに
いけんなされて 白糸さんよ
せめてこの子が 十にもなれば
昼夜あげづめ なさりょがままよ
または私が さられたあとで
お前女房に なられたとても
どうせそのうち もんどどのに
三どきたなら 一どはあげて
二どはいけんを してくだしゃんせ
言えば白糸 言葉につまり
わしもつとめの 身のうえならば
女房もちとは ゆめさら知らず
ほんに今まで こんらんなれど
さぞや憎かろ お腹がたとが
わしがこれから もんどさまに
いけんしましょ お帰りなされ
言うて白糸 二かいへあがり
あとに二人の 子供をつれて
お安とぼとぼ わ家へかえり
ついに白糸 もんどに向かい
お前の女房が 子供をつれて
わしをたのみに きましたほどに
サッサおかえり とめてはすまぬ
言えばもんどは にっこり笑い
おいておくれよ かまいはせんよ
ついにその日も 居続けなさる
まてどくらせど かえりもしない
お安子どもを あいてにいたし
もはやその日も はや明けければ
しはいがたより お使いありて
もんど身もちが ふらちがゆえに
とうとう ふちもめしあげられる
あとでお安は とほうにくれて
あとにのこりし 子どもがふびん
しあんしかねて とうわくいたし
ふちにはなれて ながらい居れば
ばかなたわけと 言われるよりは
武士の女房じゃ じがいをしよと
二人の子供をねかしておいて
硯とりよせ 墨すりながし
おつるなみだが すずりの水に
なみだとどめて かきおきいたし
白きもめんで わが身をまいて
二人子供の ねたのを見れば
かわいかわいで 子にひかされる
おもいきる刃を さか手にもちて
ぐっとじがいし 刃とともに
身は紅の 血しおにそまり
二人子供は はや目をさまし
三ッになる子が 乳房にすがり
五ッになる子は せなかにすがり
これさかかさん のうかかさんと
おさな心で はや泣くばかり
もんどはそれとは 夢さらしらず
女郎やたちいで ほろほろよいで
にょうぼくずしの 小うたで帰る
表ぐちから 今もどったとて
子供二人は かけ出てながら
もうしととさん おかえりなるか
なぜにかかさん 今日にかぎり
ものも言わずに 一日およる
ほんに今まで いたずらしたが
ぎょいはそむかぬ のうととさまよ
どうぞわびして くださりましと
きいてもんどは おどろきがおで
あいのからかみ さらりとあけて
みればお安は 血しほにそまり
おれが心の わるいがゆえに
じがいしたるよ ふびんなことよ
なみだながらに 二人のこども
ひざにだきあげ かわいやほどに
なにも知るまい よくきけ坊よ
母はこの世の いとまじゃほどに
いえば子どもは 死がいにすがり
もうしかかさん なぜそうになった
わたしら二人 はどうしましょぞ
なげく子供を ふりすておいて
だんな寺へと いそいでゆきて
かいみょうもろうて わが家へかえり
あわれなるかや 女房のしがい
こもにつつんで せなかにせおい
三つになる子を 前へとかかえ
五つになる子の 手を引きながら
ゆけばお寺で ほうむりまする
ぜひもなくなく わが家へかえり
女房お安の 書きおきみれば
あまり身もちが ふらちがゆえに
扶持もなんにも とりあげられる
またはもんぜん ばらいと読みて
さてはもんどは ぎょうてんいたし
子供なくのをそ のままおいて
いそぎゆくのは 白糸かたへ
これさおいでか もんどさまよ
したがこんやは おかえりなされ
言えばもんどは そのものがたり
えりにかけたる かいみょうを出して
見せりゃ白糸 手をとりあげて
わしが心の わるいがゆえに
お安さんへも じがいをさせた
さてはこれより 三づの川も
お安さんとも 手を引きませと
言えばもんどは しあんをなさる
わしとおまえと 心中をしては
お安さまへの いいわけたたず
お前しなずと ながらいしゃんせ
二人の子供を せいじんさせて
えこうたのむよ もんどさまよ
言うて白糸 ひとまへ入りて
あまたほうばい 女郎しゅをあつめ
ゆずりものとて くしこうがいを
やれば小はるは ふしぎにおもい
これさねえさん なにごとなるか
ゆずりなさるは いかなることよ
それにお顔も すぐれはしない
言えば白糸 よくきけ小はる
わしはおさなき 七ッのときに
人にうられて 今このさとへ
つらいつとめも はや十二年
つとめましたら もんどさまへ
日ごろ三年 こんしんいたす
こんどわしゆえ おふちにはなれ
または女房が じがいをなさる
それにわたしが ながらいおれば
おしょく女郎の いきじがたたぬ
死んでいきじを たてねばならぬ
はやくそなたも 身ままになりて
わしがためとて こうばなたのむ
言うて白糸 ひとまへ入りて
ロのうちでも ただひとりごと
なみだながらに のうお安さん
わたしゆえこそ いのちをすてる
さぞやおまえは むねんであろが
死出のやまぢも 三づの川も
ともにわたしが 手をひきましょう
南無と言う この世のわかれ
あまたほうばい みなうちよりて
人になさけの 白糸さんが
もんどさんゆえ いのちをすてる
のこりおしげに ほうばいどもが
わかれをしみて 泣くのもどうり
いまはもんども せんかたなくも
しのびひそかに わが家へかえり
子供二人に かきおきかいて
すぐにそのまま ひとまへいりて
かさねかさねの 身のあやまりを
われとわが身に 一生たてる
子供二人は とりのこされて
⻄も東も わきまえ知らぬ
おさな子供も あわれなものよ
あまた心中も あるとはいえど
義理を立てたり いきじを立てる
こころ合うたる 三人どもに
きくもあわれな はなしでござる
ここらあたりで
コレワ ドッコイショウ
「哲多町史」より
八百屋お七小姓吉三くどき
花のお江戶にその名も高き、本郷二丁目に八百屋というて、よろづ⻘物渡世をなさる、店も賑やか繁昌な暮し、折りも折りかや正月なかば、本郷二丁目は残らず焼ける、そこで八百屋の久兵衛事も、普請成就をするその中に、檀那寺へとかり越しなさる、八百屋のお寺はその名も高き、所は駒込吉祥寺様よ、寺領ご朱印大きな寺よ、座敷間数も沢山あれば、これに暫らく假り越しなさる、八百屋娘はお七と言うて、年は二十で花なら蕾、気量よいこと十人すぐれ、花に譬えてもうそうならば、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は姫百合子花よ、寺の小姓の吉三と云うて、年は十八薄前髪よ、気量よいこと卵に目鼻、そこでお七は不図なれ染めて、日頃恋しと思うておれど、人目多けりや話も出来ず、女心の思いの丈を、人目忍んで話さんものと、思う折柄幸いなるか、寺の和尚は檀家へ行きやる、八百屋夫婦は本郷へ行きやる、後に残るはお七に吉三、そこでお七は吉三に向い、これさ吉さんよく聞かさんせ、あとの月からお前を見そめ、日々に恋して思うておれど、親のある身や人目をかねて、言うに云われず話しもできず、今日が日までも云わずにゐたが、妾しが心をこれ見やさんせ、かねて書いたるその玉章を、吉三見るよりさしうつむいて、さてもうれしいお前の心、さらば私もどうなりましょうと、主の心に従いましょうと、この夜打ち解け契りを結ぶ、八百屋夫婦は夢にも知らず、最早普請も成就すれば、翌日は本郷に皆行くほどに、それにつけても妾しとお前、別れわかれにおるのはいやと、実は私も悲しゅうござる、いえば吉三も涙を流し、わしもお前に別れがつらい、共に涙の果しがつかぬ、そこで吉三は気を取りなおし、これさお七よよう聞かさんせ、後に逢われぬ身じゃあるまいし、またも逢われる時節もあろう、心直して本郷へ行きな、わしもこれから尋ねて行くよ、云えばお七も名残を惜しみ、涙ながらに両親ともに、元の本郷へ引き越しなさる、八百屋久兵衛日がらをえらび、店を開いて売り初めなさる、その近所の若衆共を、客に招いて酒盛りなさる、酒のお酌は娘のお七、愛嬌よければ皆さん達が、われもわれもとお七を目指す、わけて目指すは釜屋の武平、男よけれど悪心もので、あたり近所の札附ものよ、その夜お七と逢い初めてより、どうかお七を女房にせんと、思う心を細かに書いて、文に認めお七に送る、お七方より返事も来ない、そこで武平はじれだしなさる、さらばこれから八百屋に忍び、あのやお七に対面いたし、否であろうがあるまいとても、口説おとして女房にせんと、思う心も恋路の慾よ、人の口には戶が立てられぬ、人の咄や世間の噂、それを聞くより八百屋の夫婦、最早やお七も成人すれば、いつがいつまで独りでおけば、身分さまたげ邪魔あるものよ、はやくお七に養子を貰い、そして二人が隠居をいたす、それがよかろと相談いたし、話きまれば娘のお七、なにを云うても年若なれば、智恵も思案もただ泣くばかり、そこでお七はひと間へ入り、覚悟極めて書き置きいたす、とても吉三と添われぬならば、自害いたして未来で添うと、思いつめたる剃刀持ちて、既に自害をいたさんものと、思う折柄釜屋の武平、かねてお七を口説かんものと、忍ぶ折柄様子を見たる、武平おどろき言葉をかける、これさお七や何故死にゃさんす、これにゃ訳ある仔細があろう、云えばお七は顔振りあげて、これさ武平さん恥かしながら、云わねば解らぬ妾の心、親も得心親類達も、話し相談した上のこと、妾に養子を貰うと云うが、いやといったら妾の不幸、親に背かず養子にすれば、二世と契りし男に済まぬ、親の好く人妾しは嫌よ、妾の好く人親達嫌よ、彼方立てれば此方とやらで、何卒見逃し殺しておくれ、聞いて武平は悪心起し、とてもわたしの手際ぢゃ行かぬ、さればこれから騙して見んと、これさお七やよう聞かさんせ、そなた全体親への不幸、可愛い男に逢われもしまい、とてもそなたは死ぬ気でおれば、ここに火をつけ我家を焼きな、我家焼ければ混雑いたす、婿の話も止めものなれば、可愛い男に逢われる程に、それがよかろと言われてお七、女心の浅墓ゆえに、すぐに火をつけ我が家を焼けば、家じゃ驚く世間じゃ騒ぐ、騒ぐまぎれに釜屋の武平、八百屋財産残らず盗む、またも武平は悪心起し、わしが恋路のかなはぬ故に、悪い奴等は二人の者よ、今に憂き目に逢わしてやろと、すぐに役所へ訴人をいたす、そこで所の役人様は、あわれなるかなお七を捕え、町の役所へ引き連れなさる、吟味するうち獄舎に入れる、後に残りし小姓の吉三、それと聞くより涙を流す、さてもあわれや八百屋のお七、元の起りは皆わし故に、今は獄舎の憂目を見るか、そなたばかりは殺しはせぬぞ、今にわたしも未来へ行くよ、しかし悪いは釜屋の武平、わしも生れは侍士ゆえに、せめて一太刀恨みをはらし、それを土産に冥土へ行こうと、用意仕度で探しに行きゃる、本郷辺りで武平に出合い、恨む刀で一太刀斬れば、ウンとばかりに武平は倒れ、吉三手早く止めを刺して、首を掻き切り吾家に帰り、委細残らず書き置きいたし、すぐにその侭自害をいたす、そこでお七はのこらず吟味、罪も決れば獄舎を出でて、行くは何処ぞ品川表、あわれなるかや娘のお七、言うに云われぬ最後でござる。
「哲⻄の⺠謡」より
躄勝五郎初花くどき
偖ても飯沼夫婦の者は、兄の敵を尋ねんためと、諸国へ廻り難行苦行、国は奥州下野境い、宮の里にて夫婦の者は、今は非人と世に落ち果てヽ、永の年月憂き艱難の、そのや中にも勝五郎さんは、重い病で躄となりて、女房初花夫にむかい、何の因果でこの有様よ、妾二人は神佛様に、見放されたか運尽きたるか、夫婦毎日只泣き暮す、慈に一人の代官ござる、心邪堅で色好きものよ、躄女房に恋慕を仕懸け、附けて廻っていろいろ口説く、なれど貞女の初花なれば、なびく容子はさらにも見えず、其処で代官はらたちまぎれ、躄ころしてあの女房を、己が心に委せんものと、数多家来を連れ随えて、或夜飯沼只一討と、切って掛れば心得たりと、受けつ流して火花を散らし、ここを先途と戦いなさる、このや手並に恐れをなして、我も我もと皆逃げ出す、斬るところへ筆助こそは、何の様子も暗闇まぎれ、出会いまぎれに皆投げ散らし、偖ては旦那か勝五郎様か、今の騒ぎは何事なるぞ、言葉かけられ勝五郎こそは、よくも筆助尋ねて来たと、涙ながらに家来にむかい、今は非人と落ちたる上に、又も業病ながなが病みて、腰が立たいで躄となった、是は女房の初花なるぞ、一伍一什を残らず語る、聞いて筆助仰天いたし、なんと言葉も只泣くばかり、そのや所へ車を持って、村の庄屋の徳左衛門どのは、これは深切奇特な者よ、人目忍んで躄にむかい、お前夫婦は大事のある身、ここに⻑居は身のためならず、このや車に乗り行く時は、たとえ千里の道程なりと、何の苦労にすることあらう、これが私の寸志であると、金子五両を餞別なさる非人夫婦はよろこび勇む、縁もゆかりもないわしたちに、今に始めぬお前の情け、車下され又その上に、金を貰うは勿体なしと、これはこれはと辞退をなさる、そこで庄屋は詮方なさに、慈に金子を捨ておくならば是を拾わん人こそあらん、縁もあるなら又逢う可しと、さらばさばと云い捨てかえる、躄夫婦は有難なみだ、金を取り上げお主の御恩、吾等死んでも忘れはせぬと、後ろ姿を見送り拝み、珠に哀れや初花こそは、可愛男は躄となれば、是非も泣く泣く車に乗せて、行けば程なく東海道の、音に聞えし箱根の山は、少し隔て、声高々と、そこの二人は飯沼夫婦、今日に限りて助けはおかず、言葉かけられ二人の者は、偖は敵の瀧口なるか、今日は怨を晴さんものと、言えば瀧口扨て冷笑い、何の汝等が躄の身にて、恨晴らすも勝負をするも、何の小癪な身をもって、やがて瀧口家来に向い、今の科人此場へ早く、連れて来れと云うより早く、直に此場に引連れ来る、これを見るより二人の者は、母も諸共只泣くばかり、そこで瀧口申する事は、併し初花この瀧口に、なびく心はないかと云えば、なれど貞女の初花なれば、例え命を取らるヽとても、あれと枕をかわするものか、聞いて瀧口腹立まぎれ、奴等と三人只一討と、思い切り刃を逆手に持ちて、憎くき躄と土足に掛ける、これを見るより初花こそは、偖も口惜し無念の涙、未だ本望遂げない先きに、若しも母上勝五郎様に、負傷があってはこれ一大事、今は是非なし瀧口どのに、なびく振りして気を赦させて、寝首取らんと心を定め、申し上げます上野様よ、妾しゃお前に従う程に、何卒二人を助けて給え、これを聞くより上野どのは、雪を氷も解け散るごとく、夫が誠であることなれば、われに免じて助けてやろうと、どうよこおうよと手間とるうちに、哀れなるかや初花こそは、母や夫に別れをなして、涙ながらに敵と共に、急ぎゆくのはこの世の別れ、死出の山路や三途の川よ、心白波二人の者は、跡に残りて只泣くばかり、今は初花必死の覚悟、憎い敵に連れられ行きて、早く寝首を打ちたいものと、思う心を瀧口悟り、活けておいては我身の仇と、不憫ながらも手にかけ殺す、まことあわれな最後でござる。
「哲⻄の⺠謡」より
基本情報
Metadata
| 伝承地 | 哲多田淵 |
|---|---|
| 伝承者 | 1)田辺実、奥津武志 2)奥津武志、田辺実 3)奥津武志 4)奥津武志 |
| 年代 | 1987~1988 |
| 録音者 | 門屋真二 |
| 詞型 | 1)7777 |
解説
Commentary
唄:奥津武志さん
1903年新見の哲多新砥生まれ。幼少から牛とともに育ち、農家を続ける。
尺八も所有されていた。歌うことが好きで、そのソウルフルな歌声は⺠謡関係者をはじめ、沢山の人に評価された。特に新見の田植え唄でよく知られている。歌は先代や地元の歌い手を手本に独学で身につけられたのでは、とお孫さんは語る。
彼の歌声は「日本⺠謡大観中国篇付属CD4」や「伝承者が唄うおかやまの唄第2集LP」に収められている。
鈴木主水(すずきもんど)
江戶後期の武士。江戶⻘山百人町に住み、妻と二人の子があったが、享和元年(一八〇一)、内藤新宿橋本屋の遊女白糸と情死したと伝えられる。その事件を素材に作られた唄が幕末に流行唄となり、瞽女(ごぜ)唄や盆踊唄にはいり、戯曲化された。
信濃国上田城主・真田昌幸の家臣として、上野国名胡桃城の城将を務めたとされる人物。真田信之(信濃国上田藩初代藩主)の家臣であった鈴木忠重(右近)は、鈴木主水の子とされる。
『加沢記』などの軍記物には下記のように記されている。
名胡桃城(真田昌幸領)の城将であった鈴木主水は、天正17年(1589年)に猪俣邦憲(上野国沼田城〈後北条氏領〉の城将。真田昌幸と敵対していた後北条氏の、上野国方面指揮官である北条氏邦の家老)によって名胡桃城を奪われた(名胡桃城事件と呼称される)。鈴木は後北条氏に偽って降伏し、隙を狙って猪俣を殺害しようと企み、沼田城下の正覚寺(群馬県沼田市に現存)に逗留したが、企図が発覚して同寺で自決した。
名胡桃城事件は、翌年の天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐、後北条氏の滅亡の直接の原因となった。しかし同事件の経過を具体的に伝える一次史料は存在せず、詳細は不明である。
そして「鈴木主水」に言及した一次史料が存在しないため、「鈴木主水」なる人物の詳細、「鈴木主水」なる人物の実在は不明である。「鈴木主水」が自決したとされる正覚寺には「鈴木主水の墓」と伝わる墓が存在するが、別人の墓ではないかという指摘を受け、かつて設置されていた案内板は撤去されてる。
てんがらこ(う)
新見全土を中心に、広島神石高原町、鳥取日野町、真庭郡新庄村などでも踊られる。「上熊谷では、動物の物真似的な踊りがつき、〜手首を回転させる振りがついていることから、天狐踊り(大宮踊)がなまったのではなかろうかというが不明である。」「日本民謡大観中国篇」より
青森県では、蝶のことを「てがら」とか「てんがら」という。大和言葉でちょうは「てんがらこ(天からこ)」鹿児島では「てんがらもん」はお利口さん。感心な子。功績をあげた人。イタズラ小僧。由来:「天からの子」説、「典雅な者」説、「手柄者」説など、諸説あります。お利口さんと、いたずら小僧の相反する意味があるのが、この言葉の面白いところです。用例:「てんがらもん」の孫だから、お小遣いをあげなきゃねー。鹿児島弁ネット辞典より
「踊りが終わりに近づくと、テンコと呼ばれる、仮装した数名(編み笠に杵を手にした者、茣蓙【ござ】を背負い念仏鉦を手にした者、二つに折ったキュウリを手にした者、ドジョウすくいの所作をする者、擂粉木【すりこぎ】を手にした者、妊婦姿で擂鉢【すりばち】を手にした者)が登場し、観客の目を奪う。
ことに擂粉木持ちと擂鉢持ちとの男女和合を模した所作が人びとの目を引き、こういった子孫繁栄を願っての気風が踊り全体の背景に秘められている。たとえば、音頭「あおい」に「しのぶにはウワハンどてらぬこがよかろウワハンヨウ菊の下葉に夜を明かす」といったような男女間の交情を暗示する歌詞が多い。かつてこの踊りのときには、歌垣【うたがき】風のこと(自由恋愛の風)が盛んだったとのことである。」
文化遺産オンラインー大宮踊の項
歌・奥津武志さん
1903年新見の哲多新砥生まれ。幼少から牛とともに育ち、農家を続ける。
尺八も所有されていた。歌うことが好きで、そのソウルフルな歌声は⺠謡関係者をはじめ、沢山の人に評価された。特に新見の田植え唄でよく知られている。歌は先代や地元の歌い手を手本に独学で身につけられたのでは、とお孫さんは語る。
彼の歌声は「日本⺠謡大観中国篇付属CD4」や「伝承者が唄うおかやまの唄第2集LP」に収められている。
八百屋お七
江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
お七火事といわれるものには、天和2(1682)年1月27日の火事と同年12月28日および天和3(1683)年3月2日の火事(『天和笑委集』)説があり、現在のところはっきりしていませんが、藤口透吾氏は、天和2年1月の火事がお七火事であり、12月の火事のときにはお七は、伝馬町の牢につながれていたとしています(『江戸火消年代記』)ので、以下は藤口説によって話を進めることにします。
天和元(1681)年2月の大火で焼け出された八百屋太郎兵衛一家は、駒込の円乗寺前に仮小屋を建て、しばらく住んでいました。
そのうちに、娘お七は、寺小姓の左兵衛と人目を忍ぶ仲になっていましたが、皮肉にも太郎兵衛の新居が元の場所にできたので、門前の仮住いを引き払わなければならなくなりました。
その後のお七の胸の内は、いまさらいうまでもありません、そこに現れたのが、ならず者の吉三郎で、彼はお七の耳にささやきました。
「それほどお小姓が恋しいのなら、もう一度、家が火事になれば円乗寺に行ってられるぜ。」
恋は盲目のたとえどおり、お七は前後の見境もつかなくなり、明けて間もない1月のある日、自分の家に火をつけ、円乗寺へと駆け出したのです。
この放火が、江戸の中心部を総なめにする大火の元となったという説もありますが、実際は近所の人がすぐに消し止め、ボヤで済んだというのが真実のようです。
しかし、当時は「失火者斬罪令」(延宝6年)があった時代です。
ましてや放火犯人は引回しの上、死罪とされていましたので、お七は天和3(1683)年3月29日、鈴ヶ森で火焙りの刑に処せられたのです。この時、お七は17歳でした。
ならず者の吉三郎は、お七をそそのかし、火事場泥棒を決め込んでいたところを捕えられ、教唆犯としてお七と同じ刑に処せられたのです。
一方、お七の恋の相手の左兵衛は、このことを知って自害をしようとしましたが果たせず、以後は剃髪して高野山や比叡山を巡り修行につとめ、やがて目黒に戻って西運堂を建立し、名も西運と改めて一代の名僧とまでなりました。入寂したときは、70歳を越えていたと言われています。
八百屋お七の墓(円乗寺・文京区白山)ここで異説のまとめをしておきましょう。
火事の日についてはすでに書いておきましたが、お七が焼け出された火事については、天和元年12月28日だとするもの、および翌2年の同月同日だとするもの(どちらも記録に残る火災)があります。
焼け出された太郎兵衛(これも市左衛門とするものあり)一家が身を寄せた寺についても、正仙院だとするものがあり、また寺小姓の名にあっては、左平、吉三、生田庄之介といろいろあります。
次にお七を素材とした文学作品などについて紹介します。
お七を題材とした最初の文学作品は、お七が火焙りの刑で処刑された天和3(1683)年から数えて3年後の貞享3(1686)年で、井原西鶴によって「好色五人女」の中に書かれました。
人形浄瑠璃としては、元禄16(1704)年2月、大阪豊竹座で上演された紀海音作の「八百屋お七歌祭文」があります。
歌舞伎狂言に初めてお七が登場したのは、宝永3(1706)年正月、大阪嵐右衛門座で公演された吾妻三八作の「お七歌祭文」で、その後数多くの作品が演じられましたが、中でも黙阿弥作の「松竹梅雪曙」は、安政3(1856)年、市川小団次(四代目)が、市村座において人形振りで見せて、大評判となった作品です。
落語としては、お七が放火の罪で火焙りになったことを知った恋人の「吉三」が、可哀相にと自分も大川に身を投げてしまいます。
あの世で出会った二人が、「お七か」、「吉三さん」と抱き合うと、「ジュウ」という音がしました。
お七が火で死に、吉三が水で死んだことから「火」と「水」が合わさって「ジュウ」。
お七の「七」と吉三の「三」を足して「十」という仕込み落ちの話です。
東京消防庁ホームページより
箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)
人形浄瑠璃。時代物。12段。司馬芝叟(しばしばそう)作。
初演は1801年(享和1)8月4日(正本刊記による)。興行場所は不明。正本版元から京都または大坂の上演か。翌9月京の⻲谷座で歌舞伎に移された。人形浄瑠璃は、享和1年11月大坂道頓堀東芝居で再演(番付による)。この興行動向から、本作の好評ぶりがわかる。
1590年(天正18)1月21日、飯沼初五郎が兄の敵加藤幸助を討った実説によるという。
通称《躄仇討》《躄勝五郎》。伏見城の城普請小頭をつとめる飯沼三平と佐藤剛助とが争い、三平は剛助に闇討される。佐々成政は、北条氏政・氏直父子に謀られて、筒井順慶に預けられる。順慶は、三平の弟勝五郎に明智方の残党と見破られ、切腹する。勝五郎は兄の敵討に向かう。剛助は、滝口上野(こうずけ)と変名して氏政に身を寄せ、九十九(つくも)新左衛門の娘初花に付け文するが、初花は三千助と名のる勝五郎に添う。勝五郎は病のためいざりとなり、初花が引く躄車に乗って箱根へ旅立つ。氏政が、先祖時政の法事に、箱根阿弥陀寺で乞食に施行すると、勝五郎夫婦も乞食となってここへ現れる。待ち伏せした上野は初花の母を捕らえ、これを枷に勝五郎をなぶり、初花を連れ去る。初花は上野を討とうとして殺されるが、その亡霊は夫のもとへ戻り、塔の沢の滝で念ずると、勝五郎の病は治る。やがて一同は、上野を討つ。
十一段目の〈阿弥陀寺〉から〈滝〉までが名高く、現在でも多く上演される。
なお、江戶の歌舞伎の最初は、1808年(文化5)7月中村座の《増補躄仇討》。
執筆者:佐藤彰
出典株式会社平凡社「改訂新版世界大百科事典」