音源
Songs
山づくし「佐倉宗吾くどき」
やまずくし「さくらそうごくどき」
山づくし「芝居役者の小源の話」
やまずくし「しばいやくしゃのこげんのはなし」
歌詞
Lyrics
佐倉宗吾くどき
これは過ぎにしその物語り、国は下総印幡の郡、佐倉領なる岩橋村よ、名主総代宗五郎こそは、こころ正直利発なものよ、これや由来をたずねて見れば、国の役人驕りに⻑じ、年貢加役をきびしくなさる、下の困究目もあてられず、今は暮しも出来がたければ、組は村々相談極め、年貢加役のご免を願う、されど役人よこしまなれば、そむくやからはお死刑なりと、なおもきびしく取立なれば、百姓残らず思案に暮れて、組合隣村はじめといたし、二百二十のその村々へ、廻状いたして相談なせば、佐倉宗吾を始めとなして、名主総代残らずあわせ、江戶の屋敷へ願いを上げる、又も今度も取り上げられず、宗吾心で思案を定め、諸人一同の身の苦しみを、我身一人の命にかえて、いっそお上へ願わんものと、国の妻子をよくよく頼み、暮れの廿日のお成りの場所は、花の上野の三枝橋よ、下に忍んで待ち受けまする、そのや折から将軍様は、お成り相済み還御となりて、橋の袂へお駕籠はかヽる、かねて用意の宗吾は直ぐに、竹の先へと願書をはさみ、橋の下より立ち出でながら、恐れ多くもお駕籠の中へ、願書差入れ平伏いたす、それと見るよりお供の衆は、直ぐに宗吾にハヤ繩かけて、お奉行所へとお渡しなさる、されば佐倉のご領主様は、国の宗吾が将軍様へ、直きの願いを上げたる故に、すぐに上からいい渡されて、年貢加役もご免となれば、国に残りし百姓達は、心おちつき安心いたし、下の騒ぎはしづまりたれど、ここにあわれな佐倉の宗吾、上へ直訴のその罪科で、国へ引かれて獄屋の住居、殿のにくしみ晝夜のせめ苦、今は命もきわまりまして、親子六人死刑の場所に、力なくなく引きいだされて、宗吾夫婦の見る眼の前で、子供ならべて成敗いたす、修羅の太鼓が相図の時刻、げにも地獄の午頭午頭なるか、未だ二つの三の助より、首を切らんと太刃振りあげる、これを見るより母親こそは、心身もよもたえられぬ思い、我身夫婦はせめ苦に逢いて、如何苦しみいたせばとても、いとなけれどもさてむごたらしや、頑是なき子に何科ありて、殺し給うぞ無理者なるぞ、思い知らせん覚悟をせよと、ハッと吐く息火滔のごとし、歎き苦しむハヤそのうちに、跡は五ツの喜八をはじめ、中は九ツ玄助というて、惣領十一惣吉までも、情け容赦も荒身の刀、子供四人は両手を合せ、これやトト様アノ母様よ、先へ行くからあとから早く、急び給へと健気な言葉、南無という声この世の暇、首は夫婦の前へと落ちる、これにつづいて夫婦の者を、台にかけおき大身の槍で、あわれ無惨や成敗いたす、あまた諸人のその見物が、ワッと声立て皆一同に、なげきなき立つ声凄まじく、天にひびきてアラ恐ろしや、身の毛よだちて見る人々も、共に心も消え入るばかり、さればその後夫婦の者は、こりし一念この世り残り、その霊魂のあらわれ出でて、国の館のおん庭先の、雪見燈籠の小影に立ちて、細き声さえいとしわかれて、殿のおんためお国を思い、苦労苦心の年月積り、恐れながらも将軍様へ、直のお願いいたせし罪よ、これも非道の役人方の、上を欺むく偽りなれば、なおも怨みの数かさなりと、慈にあらわれ怨みをはらす、聞いて殿様役人はじめ、国の百姓みな一同に、宗吾の霊魂神にとあがる、思ひはらして豊作まもる、今に佐倉の鎮守の祭り、後の世までも大明神と、国の守りと其の名は残る。
「哲⻄の⺠謡」より
基本情報
Metadata
| 伝承地 | 哲多萬歳 |
|---|---|
| 伝承者 | 高橋敏蔵 |
| 年代 | 1965〜1975 |
| 詞型 | 7777 |
解説
Commentary
山づくし
『〜づくし』とはもとは即興詩での唄という意味であった。
「日本⺠謡大観中国篇」いわく鳥取で盛んな「ヤンハートナー」系統の盆踊り。
新見に近い島根県の南東部でも「山づくし」として踊られている。
調べた結果、隠岐と奥出雲町三成では「山くずし」と呼ばれている。歌詞の中にかんな流しを揶揄す
る文句がある。出雲町荒茅では「荒茅盆踊り」と呼ばれる。
隠岐の盆踊り「山くずし」(浦郷)
〽アー山崩せ(アラセ)
山を崩して田にしましょ(アラヤーハットナーヤーハットナー)
サテ田にしましょ(アラセ)
山を崩して田にしましょ(アラヤーハットナーヤーハットナー)
〽盆の十六日ゃめでたい月夜子持ち姿も出て踊れ
出て踊れ子持ち姿も出て踊れ
〽夕べ夜這い人が百四十と五人させにゃ名が立つ皆させた
皆させたさせにゃ名が立つ皆させた
〽天の星さえ夜這いに行くに地下の若い衆に無理はない
無理はない地下の若い衆に無理はない
〽女子友達高嶺の花よ盛り過ぎたらチラバラと
ちらばらと盛り過ぎたらチラバラと
三成盆踊り(やまくずし・鈴木主水)古くから火難除けの神として崇敬される愛宕神社の夏祭りは300年余の伝統をもつ。「幻の一夜城」が愛宕山に出現し、参道の灯明とともに幻想的な眺めとなる。
子供みこしや神楽などの仁輪加が町を練り歩き、花火などの催し物で賑わう雲南地方屈指の祭りで踊られる盆踊歌謡である。
かなやごたたら製鉄の総本山「金屋子神社」のある安来市比田には「山くずし」の口説きに、たたら製鉄にまつわる物語があります。
安部屋口説(金屋子口説き、七五調やまづくし)たてあき
享和二年(1802年)、金屋子神社神官の帯刀旦那(二十九才)と市原たたら商の娘おふささん(二十四才)は、夫婦になる約束を交しましたが、身分の違いからどちらの親からも反対されました。おふささんは勘当を受け、二人は手に手を取って真夜中、市原峠を越え横田の岩屋寺を目指しました。
途中鳥上の小川原という家で休息されていましたが、二人を追って来た⻄比田古市の庄屋弥平さんに説得され、一緒に金屋子神社まで帰りましたが、結局結婚は許されず二人とも亡くなりました。これを「安部屋口説」としてまとめ、盆に唄い踊って二人の霊を慰めたことでしょう。
「島根・安来比田たたらの里盆唄」より
金屋子神社
広瀬町の最奥部⻄比田の重畳たる中国山地の小盆地に鎮座し、広瀬町の中心部から約25km南方にあたる。当社は数度の火災により、文献その他殆ど焼失してしまったので、その由来などは明らではないが、遠く上古の神話に端を発し、祭神金山彦神(かなやまひこのかみ)、金山姫神(かなやまひめのかみ)のほか15柱を祀り、古来タタラ製鉄七守護神として知られる。
金屋子さんの名のもとにその信仰圏は広く、往時は山陰、山陽および大阪地方における製鉄業者の信仰が厚く、旧藩時代においても代々の藩主は、社殿の造営や祭祀等に奉仕し、多くの寄付をするという慣例があった。
安政5年(1858)の祭礼の日、火災のため宮殿を焼失し、現在の社殿はその後の建立によるものであるが、その造りの壮麗なことは近隣に比類を見ない(県指定文化財)。ことに拝殿内のケヤキの一枚戶の龍の彫刻は荒川⻲⻫(きさい)の作で、たびたび拝殿をゆさぶったとの言い伝えがある。
道頓堀の座元勘兵衛、又は芝居役者小源、石川小源なる人物、芝居役者一行についてはいずれも不明である。
新見でもよく口説かれるお話で、鳥取県日南町、名和町でも口説かれていた。宮島歌舞伎(みやじまかぶき)
宮島での芝居興行は16世紀後半には行われていたといわれ、屏風絵などには神社周辺に仮設の舞台を設けている様子が描かれている。
宮島歌舞伎がいつ頃から始まったかははっきりしていないが、井原⻄鶴の『好色一代男』(1682年刊行)に、宮島への旅興行の歌舞伎芝居のことがでてくることからも江戶時代の中期にはすでに歌舞伎芝居が行われていたことがわかる。芝居小屋は厳島神社の南側、ちょうど御本社の裏に設けられていた。6月の夏市(管絃祭)の宮島芝居は好評を博し、文政8(1825)年に全国の芝居興行地を番付仕立てにした「諸国芝居繁栄数望」では前頭五枚目に位置づけられ、宮島芝居は「親猿が、子猿をたんとつれて屋根のまどから芝居を見物するもおかし」とあり、その盛況ぶりをうかがわせている。
こうして宮島は歌舞伎のみならず、瀬戶内海⻄部地域の芸能文化の中心地の役割を果たしていたのである。
「宮島の芸能と伝統工芸」より