音源

Songs

松江「赤猫口説き」

まつえ「あかねここどき」

山ずくし「お染せきさ」

やまずくし(おそめせきさ)

てんがらこう「平佐くどき」

てんがらこう(へいさくどき)

歌詞

Lyrics

松江 (赤猫くどき)

お囃子(コラセ:アラヨオホイナー ホイサヨオホイヤナーホイ)

周防 山城 芳野の里で  屋号申せばナ升屋とナござる

ハア升屋亭主はナ赤猫好きで よもや久しきナ赤猫ナ飼いで

ハア猫の年齢ナ十七十歳で  猫はおん猫まれなるナ猫よ

ハアそこの娘にナお磯とナござる 目筋・鼻筋ナ首立ナのんで

ハア特に口のは十五三の器量 それに赤猫ナチョット目をかける

ハアいつかどうぞとナ隙間をナねらう  隙間ねらへばナ隙間もナござる

ハア来る九月のナ十七十日は  蔵王権現ナ稲荷の十祭り

ハア家内残らずナ権現ナ参り それにつけてはナお磯も参る

ハア後に残るはナ赤猫ナー人   そこで赤猫ナチョット身をつくる

ハアーの手代の衣装借り出して 下に白無垢中に黄無垢

ハア上に着たのがとうべにナがのこ 帯は当世のナはやりのナ倫子

ハア三重と廻してキチサとナ結び トントたたいてナ背中にナ廻す

ハア印籠巾着腰にとナ差して  長い大小落としに差して

ハア足袋は京差しナハツ緒のナ雪駄  深い編み笠ナコッポとナかむり

ハアトロリトロリとナ権現け参り ーの木駄端ナニの木駄端や

ハア三の木駄端ナ待ち受けナおれば そこへお磯が一下向のナもどり

ハアお磯手を取りナリンリとナ締める 締めたところですほどおとナさ

ハア一夜一夜と契りを結ぶ  三月四月はナ袖でもナかくす

ハアも早五つ月ナあらわれ月よ  十月立ったらナ生まねばならぬ

ハア一家一門ナ皆集まりて お磯子を生む評判高い

ハアお磯生んだるナその子を見れば  手足や人間ナ顔見りゃナ猫よ

ハアほえる声聞きゃナ「おんにゃほぎゃほ」と一家一門ナ皆おどけろいて

ハアそこで母御がナ申されナ様にや   「なんとお磯やナおぼえはナ無いか」

ハア云えばお磯がけ申されナ様にゃ 「そうも云わんしゃけ覚えもナござる」

ハア去年九月のナ十七日は 蔵王権現ナ稲荷の祭り

ハア家内残らずナ権現ナ参り  一の木駄端ナニの木駄端や

ハア三の木駄端すさがりし時に ニハばかりの良き若殿が

ハアわしの手を取りナリンリとナ締める 締めたところでナほど落ナさ

ハア一夜一夜と契りを結び 「それが高じてナこの成りすました」

ハアそれを赤猫ナ立ち聞きいたし 「お磯お磯」とナ裏にとナよんで

ハア 「わしは死ぬるがナお前はどうか」  云えばお磯がナ申されナ様にゃ

ハア「お前死なんしゃわし諸共に  「つれて行かんせナ冥土とナやらへ

ハア云うて二人は手を取り合うて 裏の細道ナトロトロナ登る

ハア「此処が良かろうナ赤猫ナ殿よ  云えば赤猫ナ申されナ様にゃ

ハア「も少し先行きゃナ青野ヶ原よ」  此処が良かろとナ赤猫ナ云えば

ハア笹の葉を取りナ水さかずきよ  猫が飲んでナお磯にさして

ハアお磯が飲んではす猫へとさして  長い刀をナスラリと抜いて

ハアお磯体をナニ太刀三太刀  返す刀で我が身を刺して

ハア猫と心中はもうこれ迄よ チョイトここらでナ踊りをかえて


山ずくし (お染せきさ)

お囃子(コラサノサ:サノヤンハトナー ヤンハトナー)

国はナ播州高砂で 尾のえの里ではナ名も高い

ハアお染ナ関佐を申しましょう 一丁ナ下がりし二丁下がる

ハア三丁な下がりしシモのちょう  柳小路のナ糸屋とて

ハアそこの子供がオトドイござる 兄のナ関佐がナ十八で

ハア妹のナお染が十六で  妹がナ娘がすきりょうがようて

ハア兄のナ関佐が目をかける 雨の降る日もナ降らぬ日も

ハア風の吹く日も吹かぬ日も 通いつめたるナそのあげく

ハア妻にナなれなれとせきかける  そこでナ妹がナ腹を立て

ハアもうし兄さん関佐さん  私とナあなたはオトドイで

ハア村のナ若い衆これ聞けば  犬だ畜生だナと笑われる

ハア云えばナ関佐が云うことにゃ もののたとえをナ云うてきかし

ハアとんとナ昔のその昔 まだも昔のその昔

ハア七日七夜の火の雨で  三千世界がナ皆焼けて

ハアたったナおとどい焼け残り 白木の櫛をば取りかわし

ハアそれがナ夫婦になりたそな 云えばナ妹がナ理に負け

ハア私もナ十六女の盛り  二世を交わしたナ主がある

ハア医者の息子の伝三さん 伝三許しておくれたら

ハア妻にナなりましょ添えましょう   今宵ナ九ツナ夜中頃

ハア私の部屋にとしのぶはず それを殺しておくれよと

ハア云えばナ関佐が承知して 裏のナ木陰で待ち受ける

ハアやがてナ来かかる人がある 関佐ナやにわにナニ太刀三太刀

ハア倒れしナ姿をよくよく見れば 愛しいナ妹のナお染の姿

ハアそこでナ関佐が驚いて 返すナ刀で我が身をさして

ハアチョイトナここらで踊りを変えて 次はてんがらこーといこうかな


平佐くどき

お囃子(アラサコラサット)

まてまてまてどっこいまてどうじゃ まてと声かけ失礼なれど

わしがチョイと出てチョイとやりましょか  わしの音頭じゃ合わぬか知らぬ

合わぬ所は踊り子様の 腕やたもとに合わせてもろて

合わぬ所は長ごうに頼む  短いところは長ごうに頼む

そんな事では踊りにゃならぬ  下は九州津波野の城下

佐々木さんとて侍ござる  それも若殿平佐とござる

年は21男の盛り 平佐今年はお江戸で御番

御番勤めに上がらにゃならぬ  それの隣に油屋がござる

そこの娘にお伝とござる  年は18今咲く花よ

立てば芍薬座れば牡丹  歩む姿がかの百合の花

それと平佐が訳ある次第 明日は日もよしお江戸へ上る

五尺手拭い中染ぬいて 人の目に立つ駒形しぼり

心付けだと平佐に出せば 平佐受け取り申され様にゃ

これはもろても此処には居らぬ  狭い津波野じゃ出世ができん

広いお江戸で出世をすれば  妻が宿にと迎えに帰る

聞いてお伝が腹立ち顔で 広いお江戸で出世をすれば

国の私を見捨ててしまう わしを見捨ててお江戸で花が

咲くか見ておれ咲かせはすまい  明日は日もよし上りにゃなならぬ

船にしようか陸地にしようか  風がなければ船路にしよと

九州若い衆見立てて出られ それについてはお伝も出られ

九州若い衆見立てて帰る 後に残るはお伝が一人

そこでお伝もしおしお帰る 帰る道にと小鍛治がござる

申し鍛冶さんお願いござる 帽子ない釘21頼む

そこで小鍛冶が申され様にゃ  親の代から小鍛治はすれど

人をあやめる釘打ちませぬ そこでお伝が申され様にゃ

お前小鍛冶が商売なれば 望み次第の釘打ちなされ

云えば小鍛治が理談に負けて  帽子ない釘21打たれ

お伝受け取り喜び勇む  帰る道にと祇園社様へ

わしが願いを叶えておくれ  胸に七本まなこに二本

残るその釘たるきや軒に  じきにお伝は我が家に帰り

我が家帰りて納戸に入りて  タンス引き明けカミソリ出して

五尺八寸姿見鏡額 たちわり大蛇の姿

裏の蓮池身を投げ捨てる  大蛇姿に成りたるお伝

七日七夜でお江戸へ着いて  平佐御殿を七巻きまいて

平佐・平佐と二声三声  平佐驚き早や目を覚まし

夜の夜中に来るもの誰か  狐狸の変化じゃないか

云えばお伝が申され様にゃ  狐狸の変化じゃないが

私九州お伝でござる  聞いて平佐がさて驚いて

直にその場で寝力使う  平佐くどきももうこれまでよ

踊り子の皆様ご苦労様よ 今年しゃこれにて終わりでござる

基本情報

Metadata

伝承地神郷高瀬
伝承者口説き 四木覚、田辺薫明
年代戦後昭和期
詞型7777
メモ松江

解説

Commentary

「盆踊りのこと」 四木覚(さとる)
現在高瀬地方で行われている盆踊りは高勝盆踊りといって、伝承では起源は相当古く天正年間であり、天正年間といっても 1573 年から 1591 年まで続き、はっきり天正何年であるかはわからない。
伝承では天正3年 1575 年の勝ケ城主に安原彦左衛門吉⺠部という人があり、この人は毛利氏に属しており、当時高瀬村に大悪疫が流行して困りはて、ちょうど高瀬の梅田に⻲の形をした⻲尾という平地の中島があり、ここに 12 神を祀り権現様とした。これが現在の⻲尾神社である。(その時毛利方の名主達が協力したので、名頭 10 名となって宮座の式が行われ現在に至る。その頃五穀豊穣も祀願し、この盆踊りが始まった。)

一方、高瀬村の平稔祀願のため盆踊りを起こしたと伝えられる。これが現在まで続いているのであり、約 400 年以上前のことである。
また、高勝盆踊りの名称は後から地域の人が称したとされ、踊りには1ばんば、2まつえ、3山づくし、4こだいじ、5てんがらこう、6さんこうと6つの踊りから成り、昔は全部踊っていた。今では他の踊りもあるので2まつえ3山づくし5てんがらこうの三つのみ踊っている。
ちなみに天正3年は新見市坂本の杠城城(ゆずりは)が落城し、城主三村元範が高尾の早乙女岩で戦死したのは有名であり、また新見荘の機能が事実上解体したのも同年である。

ごんげん-さま【権現様】. 「権現」を敬っていう語。 徳川家康を敬っていう語。また、家康を祭っ
た東照宮のこと。


「きょうだい心中」「おとどい心中」「けいまい心中」などと全国で謡われている。

「おきよ紋兵衛」が有名。舞台は近江の野々市町だが筋書きはほぼ同じ。

「お染と関佐」なる人物に関してはどこから来たのかわからない。

同じ心中ものの「お染久松」、または落語の「品川心中」に見られるように、「お染」といえば心中ものとなっていたのかもしれない。

「お染久松」は実際にあった事件をもとにしている。宝永7年(1710年)正月6日に、大坂板屋橋(いたやばし)の南詰(みなみづめ)にあった油問屋の細工場(さいくば)で、丁稚(でっち)の久松が主人の娘そめと刃で心中した。


三千世界(さんぜん-せかい)

全宇宙、この世のすべて。仏教でいう世界観で、須弥山しゅみせんを中心に、周囲に四大洲があり、その周りに九山八海があり、われわれの住む小世界を形成し、この一つの世界を千合わせたものを小千世界、小千世界を千合わせて中千世界、さらに中千世界を千合わせて大千世界。この大千世界は千が三つ重なるので三千大世界、略して三千世界という。この三千世界が一仏の教化の及ぶ範囲とされた。俗に世間の意に用いられることもある。

古来から櫛と婚姻の関係は深く、『古事記』においてイザナギは、妻のイザナミが差し向けた追っ手から逃れるために、櫛の⻭を後ろに投げ捨てたところ、櫛が筍に変わり難を逃れている。又、ヤマタノオロチ退治でスサノオを助けた稲田姫も櫛との縁がある。


奇稲田姫(くしなだひめ)

記紀の八岐大蛇(やまたのおろち)退治神話に出てくる乙女。脚摩乳(あしなずち)・手摩乳(てなずち)の娘でその名は稲田の豊饒をあらわしている。年ごとにやってきて娘(=稲田)を食う大蛇の犠牲となろうとしたところを,素戔嗚(すさのお)尊によって櫛に変身させられて救われ,のち出雲の須賀の宮を定めたスサノオの妻となる。《出雲国風土記》に見える久志伊奈太美等与麻奴良比売(くしいなだみとよまぬらひめ)も同じく稲田の化身と考えられる。執筆者:阪下圭八
出典株式会社平凡社「改訂新版世界大百科事典」


山づくし

『〜づくし』とはもとは即興詩での唄という意味であった。

「日本⺠謡大観中国篇」いわく鳥取で盛んな「ヤンハートナー」系統の盆踊り。

新見に近い島根県の南東部でも「山づくし」として踊られている。

調べた結果、隠岐と奥出雲町三成では「山くずし」と呼ばれている。歌詞の中にかんな流しを揶揄する文句がある。出雲町荒茅では「荒茅盆踊り」と呼ばれる。

隠岐の盆踊り「山くずし」(浦郷)

〽アー山崩せ(アラセ)
山を崩して田にしましょ(アラヤーハットナーヤーハットナー)
サテ田にしましょ(アラセ)
山を崩して田にしましょ(アラヤーハットナーヤーハットナー)
〽盆の十六日ゃめでたい月夜子持ち姿も出て踊れ
出て踊れ子持ち姿も出て踊れ
〽夕べ夜這い人が百四十と五人させにゃ名が立つ皆させた
皆させたさせにゃ名が立つ皆させた
〽天の星さえ夜這いに行くに地下の若い衆に無理はない
無理はない地下の若い衆に無理はない
〽女子友達高嶺の花よ盛り過ぎたらチラバラと
ちらばらと盛り過ぎたらチラバラと

三成盆踊り(やまくずし・鈴木主水)古くから火難除けの神として崇敬される愛宕神社の夏祭りは300年余の伝統をもつ。「幻の一夜城」が愛宕山に出現し、参道の灯明とともに幻想的な眺めとなる。

子供みこしや神楽などの仁輪加が町を練り歩き、花火などの催し物で賑わう雲南地方屈指の祭りで踊られる盆踊歌謡である。

かなやごたたら製鉄の総本山「金屋子神社」のある安来市比田には「山くずし」の口説きに、たたら製鉄にまつわる物語があります。


安部屋口説(金屋子口説き、七五調やまづくし)たてあき

享和二年(1802年)、金屋子神社神官の帯刀旦那(二十九才)と市原たたら商の娘おふささん(二十四才)は、夫婦になる約束を交しましたが、身分の違いからどちらの親からも反対されました。おふささんは勘当を受け、二人は手に手を取って真夜中、市原峠を越え横田の岩屋寺を目指しました。

途中鳥上の小川原という家で休息されていましたが、二人を追って来た⻄比田古市の庄屋弥平さんに説得され、一緒に金屋子神社まで帰りましたが、結局結婚は許されず二人とも亡くなりました。これを「安部屋口説」としてまとめ、盆に唄い踊って二人の霊を慰めたことでしょう。
「島根・安来比田たたらの里盆唄」より


金屋子神社

広瀬町の最奥部⻄比田の重畳たる中国山地の小盆地に鎮座し、広瀬町の中心部から約25km南方にあたる。当社は数度の火災により、文献その他殆ど焼失してしまったので、その由来などは明らではないが、遠く上古の神話に端を発し、祭神金山彦神(かなやまひこのかみ)、金山姫神(かなやまひめのかみ)のほか15柱を祀り、古来タタラ製鉄七守護神として知られる。

金屋子さんの名のもとにその信仰圏は広く、往時は山陰、山陽および大阪地方における製鉄業者の信仰が厚く、旧藩時代においても代々の藩主は、社殿の造営や祭祀等に奉仕し、多くの寄付をするという慣例があった。

安政5年(1858)の祭礼の日、火災のため宮殿を焼失し、現在の社殿はその後の建立によるものであるが、その造りの壮麗なことは近隣に比類を見ない(県指定文化財)。ことに拝殿内のケヤキの一枚戶の龍の彫刻は荒川⻲⻫(きさい)の作で、たびたび拝殿をゆさぶったとの言い伝えがある。

金屋子神社は諸国に分祠をつくり、出雲、伯耆、備後、石見にわたって22社を数える。そのほか諸国の鍛冶鋳物師の間でも、その職場には必ず金屋子神を勧請し、本社の祭礼(4月21日)には遠近にかかわらずこの地に足を運んだといわれる。

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