
音源
Songs
田植え歌「ねり歌」
たうえうた「ねりうた」
田植え歌「月歌」
たうえうた「つきうた」
田植え歌「田の神の歌」「ねり歌(一部)」「大山登りの歌」「ねり歌」
たうえうた「たのかみのうた」「ねりうた(いちぶ)」「おおやまのぼりのうた」「ねりうた」
田植え歌「大山登りの歌」
たうえうた「だいせんのぼりのうた」
田植え歌「宮島参りの歌」
たうえうた「みやじままいりのうた」
田植え歌について雑談、回想
たうえうたについてざつだん、かいそう
田植え歌「朝の歌」
たうえうた「あさのうた」
田植え歌「苗代種まきの歌」
たうえうた「なわしろたねまきのうた」
田植え歌「四季の歌」
たうえうた「しきのうた」
田植え歌「五色の歌」
たうえうた「ごしきのうた」
田植え歌「神迎え」
たうえうた「かみむかえ」
田植え歌「神送り」
たうえうた「かみおくり」
田植え歌「ねり歌」
たうえうた「ねりうた」
歌詞
Lyrics
田植え歌―ねり歌
ひんだがたくみ建てたが番匠建てたる堂は
さて美くしや備中の国の吉備津神社
出雲の国の清水寺の伯耆の国の大仙の地蔵
堂は桧皮葺き
⻩金の垂木にゃ桧皮葺き
大仙の権現様に参るには
紅い扇を手に持ちて
大仙の権現様を拝むには
紅い扇を差し上げて
田の神を今こそ送る天笠に
十二の干支の真中に
田の神を納めておいて拝むには
紅い扇を差し上げて
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
田植え歌-月歌
正月はかどにぎやかに松立てて
しめきりかざりて神まつり
二月には五穀の種を取りよせて
若菜と水にかしそめる
三月は吉野の山の山ざくら
さいてみだれて散るばかり
四月には縄手を見れば美しゃ
おさない螢が火をともす
五月には御はんは海山かいがたし
秋のけしきを待つばかり
六月は高山雪も雪とけて
小川に流れて水となる
七月は千町が原を眺むれば
五色の稲がゆらゆらと
八月は三角のくぼに鎌入れて
先ずさんばいに穂がけする
九月には奥山聞けば鹿のこえ
妻子が恋しゅて泣くのやら
十月は高山見れば美しや
雪や氷で張りつんで
神無月諸国の神が国立ちて
出雲の国へと集りて
師走には年なるくれで松立てて
しめ切りかざりて神迎へ
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
田植え歌ー田の神様の歌
天笠の高天の原に神あらば 田の神様の父御なり
天笠の龍社の川に主あらば 田の神様の母御なり
田の神を迎えの駒は何駒か 当三歳の鹿毛の駒
田の神を今こそおろす何のくぼに 前田のくぼのくぼづまに
田の神をおろしておいて拝むには 膳組揃え苗三把
早乙女が前田におりて何をする 先ずさんばいの田植えする
田植え歌―ねり歌
さて今日の若早乙女さんよく聞きなされ
若早乙女は上早乙女の間に入り
上早乙女の教えを守り
先づ一番に田のあぜ踏むな
田のあぜけたは田の神様のお遊び所
さてその次はあと口踏むな
田のあと口は田の神様のお休み所
さてその次は深田に植えなまねき田も植えな
伏せ田を植えな拝み田も植えな
一本二本が無いように
植え給え若早乙女はもろともに
道行く人が立ちどまる
今日の若早乙女の植え姿
五月野に咲く百合の花
田植え歌ー大山登りの歌
恋しくば尋ねてござれ米子まで 米子の町の真中に
米子へは諸国の人が尋ね来る 大仙お山と尋ね来る
米子から麓の茶屋まで何ぼある 麓の茶屋まで三里ある
米子から大仙お山へ何ぼある 大仙お山へ五里ござる
大仙のお山に登る何時登る 朝垢離取りて今朝登る
大仙で垢離取る川は何処にある 本社の前のはねつるべ
大仙の本社の前のはねつるべ 水汲み揚げて垢離を取る
【垢離】
1.神仏に祈願する際、水を浴びて体のけがれを去ること。水ごり。
田植え歌―ねり歌
伝承地:神郷町下神代
伝承者:土屋佐由・他
ひんだがたくみ建てたが番匠建てたる堂は
さて美くしや備中の国の吉備津神社
出雲の国の清水寺の伯耆の国の大仙の地蔵
堂は桧皮葺き ⻩金の垂木にゃ桧皮葺き
大仙の権現様に参るには 紅い扇を手に持ちて
大仙の権現様を拝むには 紅い扇を差し上げて
田の神を今こそ送る天笠に 十二の干支の真中に
田の神を納めておいて拝むには 紅い扇を差し上げて
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
田植歌ー大山登りの歌
伝承地:神郷町下神代
伝承者:土屋 佐由・他
恋しくば尋ねてござれ米子まで 米子の町の真中に
米子へは諸国の人が尋ね来る 大仙お山と尋ね来る
米子から麓の茶屋まで何ぼある 麓の茶屋まで三里ある
米子から大仙お山へ何ぼある 大仙お山へ五里ござる
大仙のお山に登る何時登る 朝垢離取りて今朝登る
大仙で垢離取る川は何処にある 本社の前のはねつるべ
大仙の本社の前のはねつるべ 水汲み揚げて垢離を取る
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
田植え歌ー宮島参りの歌
我殿が宮島様に参るには 音戸が瀬戸の難所あり
船頭が音戸が瀬戸を越す折りは 一丈や五尺のろがしわる
此の瀬戸を切りぬく大将は誰様か 平家大将や清盛よ
此の瀬戸を切りぬく内にお日も入る 暮れては瀬戸が切りかねる
清盛は日の丸扇をさし上げて 日輪様を呼びかえす
清盛の墓所は何処かと尋ぬれば 音戸が瀬戸の海中に
我殿は瀬戸にのり出して何処に着く 宮島様の鳥居まで
宮島で一の鳥居がどこに有る 宮島様の海中に
宮島を廻れば七里その浦は 浦は七浦七恵比寿
我殿が宮島様へ上るには 七浦潮をくみ上げて
我殿が宮島様をおがむには くんだる潮をさし上げて
宮島の回廊の内のしめ飾り しめきりかざりて神遊び
宮島の回廊はどなたの寄進か 飛弾の匠が建てたが番匠清盛建立
宮島の明神様の舟遊び お供の舟が賑かに
宮島でふしぎな堂が廻り堂 大人も子供も皆廻す
宮島で目に付く堂がえんま堂 諸国の軍を掛けてある
宮島で千畳敷なるその堂は 参詣人のこもり堂
宮島で千畳敷のその堂が何処に有る お山の弥山の真中に
宮島で弥山に登りて下見れば 岩国港が目の下に
岩国のそろばん橋が何ぼ有る そろばん橋が七つある
岩国のそろばん橋から沖見れば 大根島が目の下に
大根島の沖島は天から降ったか 地から湧いたか見たか聞いたか推量か
見もせぬ聞きもせぬ人の推量
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
厳島(通称は宮島)は、西日本の広島湾に浮かぶ小さな島で、森林や古い神社仏閣で知られています。
「朝の歌」
大正拾四年乙丑正月調」田植歌より
此の世なる昔は泥の海なれど ○伊佐なぎ様や伊ざなみの歌」
伊佐なぎや伊ざなみ此の世のほこのつゆ おちれば此の世が島となる
此の世では島の始がどの島か おのころ島が始めなり
此の世ではおのころ島が始めにて 下りの島や大屋島富山
神代にはうい立山に宮づくり これこそ神代の始めなり
此の世では時さすものは何蛇やら わかさの国のかしわどり
柏葉鳥時打つ始めは何時か 夜の九つに羽ならす
柏葉鳥夜の九つに羽ならす時造る 諸国の人の目をさます
柏葉鳥はりまの国で巣をかけて 十二の卵を産み揃へ
うみ揃へ十二が一度に出で揃ひ 此の世が繁昌と皆歌ふ
ほととぎす未だ世の内になく鳥は 未だ世も深ひ月の内
けさの世のほのぼのにきじがないて通るぞ きじやら鷹やらないて通るある
紀州なる権現山の小がらすは 権現様の森がらす
森がらす夜を込め飛で⻄に行く ⻄にも森があるじゃやら
森烏⻄にも森があるじゃやら 宮島森に立ちとまる
森がらす宮島森に巣を掛けて つがい卵を産み揃へ
産み揃へつがい一度に出で揃ひ 親もろ共に森にすむ
○けさ出の小がらすが露にしょんぼりぬれてな うらうらとないて通るつゆにしょんぼり
朝起きて東を拝めば朝(あざ)やかに 日輪様のおあがりよ
朝起きて細戶をあけて見渡せば 小金に勝る朝日さす
今日の日輪様は有難や 降り照なしに有難や
朝日さす夕日がかがやく其の許に ぜにがめ七つにツンガネ九つ
朝起きて手水の水をくむ折りは 水九六手ぶりがしなやかに
しなやかにくんだる水でこりをとる 諸国の神々皆おがむ
十七が小金の諸縁に手をついて 日輪様に拝をする
今程に五月女方は揃ふたか 揃わぬ人はさらにない
今程に五月女方は声ならせ ならさぬ声は音ごえなり香る
今朝出のたおりには歌のそろ落た 落たも道理かや歌のそろう
今程に五月女方は植給へ 道行く人も立ちとまる
十七の今朝出の田おりを眺むれば 五月女笠で花やかにする
○朝歌はゆうにと朝うたにこそな お福がさずかる朝うたに
ほのぼのと赤ぎ(あこぎ)が浦の朝ぎりに 島かくれ行く朝ぎりに
ほのぼのと赤ぎが浦の帆かけ舟 舟かくれ行く妻ほしや
朝ぎりに巻き込められたさも鹿は 行くへがなふて空を見る
○朝ぎりは山やれ きりがはれて山やれ
○きりがはれて廻れば 休め五月女
この田植歌本は、神郷町下神代の土屋佐由氏所蔵。
「岡山の⺠謡 緊急報告書」より
苗代種まきの歌
八雲立つ出雲の国と打ち開く 豊葦原がうちとめる
我とのは鞍馬の山へ年ごもり お福をもらいに年ごもり
我とのは鞍馬の山からいつもどる お福もろうて今朝もどる
天竺の龍蛇の池がどこに有る 高天の原の川上に
天竺の龍蛇の池を池ざらへ さらへて置て種をかす
○池はさらへたが何石ばかりかそうか 何石ばかりかしませうや千石ばかり
千早振る神代は昔田のはじめ 出雲の国の三角くぼ
新玉の年若牛にくらのせて 今年も田圃をすきかやす
出雲には倉田の沖の大町を すいたりかいたり苗代よ
種はかへたがどの田に蒔くか 沖の五田ん田の中の町に
出雲には倉田の沖の苗代に種を蒔く まこうやけさの朝ぎりに
朝ぎりは蒔きたる種の生ようは 元が一つで葉がしげる
○池の空の七さこで矛をかり居ればな ざんざと音がする芽をかれば
○おく山の茅かれば昨日がりか今日がりか 昨日がりひしなへてとんと今日がり
○烏帽子こそ社な 中に神がまします
今日の若五月女が苗をとる 千石ばかりもとり上げて
五月女が千石ばかりもとり上げて 一本植ては千葉となる
○ほとりなへをゆうに取れほとり苗にこそな 千石ばかり米がなるほとり苗に
苗手わら手に持ちて苗代にこそな たあすきを〆かけて苗代に
田植え歌―四季の歌
春来れば柳も芽だつたづの葉は まだも幼し槇の若ばえ
春すぎて夏つる蚊帳を質に置き 外で利が付く内で蚊が食う
夏の夜に森にこずゆが高木して 下では蝉が歌をよむ
夏草に刈り込められたるきりぎりす なくなく御馬に乗せられて
秋の田の穂の上照らす稲光り どことて所はきらわざりけり
秋来れば刈り干す稲をぬすまれて 妻や子供に何を食わせる
冬来れば凍らぬ里は更になし 吉野の里のさめのおはなし
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
五色の歌
赤き歌赤には赤土赤砂ぐま 朱の酒づきにえびの盛物
黑き歌鹿場のかちんに黑烏 春の焼野に熊よふすらん
⻘き歌十草にかよぎぬ糸柳 宇根の若松谷の姫ざさ
⻩な歌おこんに紫⻩きわだ色 未だも色よし花ぶきの花
白き歌白には白糸白羽弓 吉野のさぎや滝先の弓
田植え歌―神迎え・神送り歌
(神迎へ)
田の神に今こそおろす何のくぼに 前田のくぼのくぼづまに
田の神をおろしておいて祭るには 膳組み揃えて苗三把
(神送り)
田の神を今こそ送る天笠に 十二の干支の真中に
田の神を納めておいて拝むには 紅い扇を差し上げて
(紅入鬘扇は、赤い彩色の目立つ、女神や草花の精などをふくめた若い女の役全般に用いる扇です。)
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
田植え歌―神迎え・神送り歌
(神迎へ) 田の神に今こそおろす何のくぼに
前田のくぼのくぼづまに
田の神をおろしておいて祭るには
膳組み揃えて苗三把(神送り)
田の神を今こそ送る天笠に
十二の干支の真中に
田の神を納めておいて拝むには
紅い扇を差し上げて
(紅入鬘扇は、赤い彩色の目立つ、女神や草花の精などをふくめた若い女の役全般に用いる扇です。)
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
田植え歌―ねり歌
さて今日の若早乙女さんよく聞きなされ
若早乙女は上早乙女の間に入り
上早乙女の教えを守り
先づ一番に田のあぜ踏むな
田のあぜけたは田の神様のお遊び所
さてその次はあと口踏むな
田のあと口は田の神様のお休み所
さてその次は深田に植えなまねき田も植えな
伏せ田を植えな拝み田も植えな
一本二本が無いように
植え給え若早乙女はもろともに
道行く人が立ちどまる
今日の若早乙女の植え姿
五月野に咲く百合の花
「岡山県緊急⺠謡調査報告書」より
基本情報
Metadata
伝承地 | 神郷下神代 |
---|---|
伝承者 | 土屋 佐由 他 |
年代 | 1987~1988 |
録音者 | 横山孝史 |
詞型 | 本節(上)5755,(下)575 |
解説
Commentary
太鼓田植は、古くは田楽(でんがく)として平安時代から伝えられるものとされる。田植歌は、田の神への豊作祈願(ほうさくきがん)の意を込め、地区の共同労働の習俗と結びあって発達した。昭和30年(1955)頃まで神郷地区や哲⻄町地区では田植歌が聞こえた。早朝、牛を使って田を均等にならし(しろかき)、さらに柄(え)ぶりを使って平(たい)らにする。その後、太鼓を打って音頭をとる人を「サゲ」と呼び、帯で体の前に支えた太鼓を両手のバチで打ちながら唄うと、早乙女(さおとめ)がこれに和(か)し、苗を植える。唄は、「朝のうた」からはじまり、続いて「田の神」、「大山登り」となり、昼が近づくと「昼前のうた」となる。午後は、「酒つくり」、「京のぼり」、「田主(たぬし)のやかた」等が唄われ、「夕方のうた」を唄い終わると一日の作業も終了する。
「にいみデジタル博物館」より
太鼓や歌の囃子に合せて共同で田植えをし、併せて鳥取県にある名峰伯耆大山の牛馬守護信仰を背景に農作業で使った牛馬の供養も行う行事である。
楽器や歌で囃す田植は平安時代の『栄花物語』などにみらる。
田植え唄の伝統は韓国、中国、東南アジアをはじめ、労作唄として広く歌われている。
新見哲西の高齢者いわく、囃し田は昔、男女の出会いの場でもあり、田植えをする早乙女の手際の良さを見比べて、嫁を探す者たちは品定めをしていたそうだ。げんに、早乙女のタスキや帯の色は既婚者と未婚者とに色分けされていた、とのこと。
嫁さだめの第一条件に「手際の良さ」を重視したのは、家での仕事をまかせた時のためであり、やはり働き者が好まれた。
盆踊りにも「田植え踊り」として踊られている。
「いつくしま(厳島、異表記:嚴島、嚴嶋ほか)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える)+シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ(市杵島姫)の名に由来するか、少なくとも同根語である。厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タゴリヒメ(田心姫。タキリビメの別名)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉(しんあ。神使の鴉〈カラス〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。
厳島は縄文海進がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石や大川浦において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜や大川浦、御床浦において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。
弥山山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。
昔は田植えが近づくとどの家もタウエゴを用意したもので、とくに娘や新嫁は紺絣(こんすがり)の着物や赤いおこし(腰巻き)を新調した。また帯の一部にも美しい布などをつけて飾り、赤だすき・手拭い・脚絆(きゃはん)にいたるまで気を配った。こうして盛装した早乙女たちは、サゲ(左肩から下へ帯で太鼓をつり支え、太鼓を打ちながら音頭をとる男)の打つ太鼓に合わせて唄を歌いながら苗を植えたもので、これを大田植えとか太鼓田などと呼んでいる。
ところで奥備中の⻄北部地方(とくに荒戶山麓周辺)では田植えを始める前にサンバイオロシの行事を行う。サンバイオロシというのは三角形に近い小さな田んぼ(三角みすまのクボ)を選び、代かきがすむと栗の枝とカヤの穂をそれぞれ十二本(閏年十三本)合わせ束ねて竹か木にしばりつけ、これを田んぼの一角に立てて森をつくる。そして森の横には苗三把をおき、飯や神酒などを膳にのせて供えたあと、早乙女はこの苗を取って十二株(閏年は十三株)植える。
田植え唄は普通、太鼓を入れるのと入れないのとがあって、例えば山田のような狭い田んぼでは太鼓を入れなかったという。しかしいずれにしても田植え唄は、田植え作業の変化に伴ってしだいにすたれ、サンバイオロシの行事とともに昭和三十年ごろから姿を消してしまった。
「奥備中の⺠謡」