音源

Songs

観音踊り・田植え踊り「大山登り」

かんのんおどり・たうえおどり「さいせんのぼり」

歌詞

Lyrics

田植踊り「大山登りの歌」

囃子 アラサイノコラサイト

大山のお山へ登るいつ登る
朝ごり取りて今朝登る

米子から大山お山へ何ぼある
ふもとの茶屋まで三里ある

大山の本社の前にはねつるべ
水くみ上げてこりを取る

大山の裏山様には何ござる
七尾の狐が八つござる

米子には諸国の人が尋ね来る
大山お山と尋ね来る

大山の横手の空に舞う霧が
米子に下がりて雨となる

弁慶が牛若丸と戦する
戦に負けて口惜しや

大山の馬乗りかけて行く時は
お山の霧も晴れて行く

大山のお山の麓に出る水は
米子の女郎衆のけしよの水

大山の鳥居の高さはなんぼある
鳥居の高さは二丈ござる

恋しくば尋ねてござれ米子まで
米子の町の真ん中に

大山の赤松池の主といえば
般若の娘が主となる

大山の赤松池に霧立てば
お山に登りて雨となる

大山の三里横手を越えてから
唐金鳥居に近くなる

大山の本社の上の笹の葉は
靖国の牛馬の御符となる

大山の唐金鳥居の額見れば
金なる文字が書いてある

大山の金文字額は誰寄進
米子の殿の御寄進よ

大山の唐金鳥居は誰寄進
松江の殿の御寄進よ

大山の本社の前の御手水鉢
蓮のれんげの手水鉢

蓮のれんげの手水鉢だれ寄進
瀬戶の佐五衛のご寄進よ

大山の本社の前にはねつるべ
水くり上げてこりを取る

大山の御神楽所はどこにある
参れば本社の右わきに

大山の御神楽舞うのはだれが舞う
十二や三の神子が舞う

大山の御神楽舞うには何を着る
はね装束に花かぶと

大山の御神楽舞うに何を持つ
にしきの巻物手に持ちて

大山の御神楽舞うには何太鼓
ともえの紋のはね太鼓

大山のお山の水はどこに出る
赤松池の真ん中に

大山の赤松池には土手がない
おろちの住んだ池じゃもの

大山の七うね八谷吹き下す
風に米子は涼しくかろ

「保存会同人 相吉武雄記 ⻄村伯夫保管」より

基本情報

Metadata

伝承地新見長屋地蔵寺
伝承者高瀬達夫
詞型本節(上)5755,(下)575

解説

Commentary

太鼓田植は、古くは田楽(でんがく)として平安時代から伝えられるものとされる。田植歌は、田の神への豊作祈願(ほうさくきがん)の意を込め、地区の共同労働の習俗と結びあって発達した。昭和30年(1955)頃まで神郷地区や哲⻄町地区では田植歌が聞こえた。早朝、牛を使って田を均等にならし(しろかき)、さらに柄(え)ぶりを使って平(たい)らにする。その後、太鼓を打って音頭をとる人を「サゲ」と呼び、帯で体の前に支えた太鼓を両手のバチで打ちながら唄うと、早乙女(さおとめ)がこれに和(か)し、苗を植える。唄は、「朝のうた」からはじまり、続いて「田の神」、「大山登り」となり、昼が近づくと「昼前のうた」となる。午後は、「酒つくり」、「京のぼり」、「田主(たぬし)のやかた」等が唄われ、「夕方のうた」を唄い終わると一日の作業も終了する。
「にいみデジタル博物館」より

太鼓や歌の囃子に合せて共同で田植えをし、併せて鳥取県にある名峰伯耆大山の牛馬守護信仰を背景に農作業で使った牛馬の供養も行う行事である。

楽器や歌で囃す田植は平安時代の『栄花物語』などにみらる。田植え唄の伝統は韓国、中国、東南アジアをはじめ、労作唄として広く歌われている。新見哲⻄の高齢者いわく、囃し田は昔、男女の出会いの場でもあり、田植えをする早乙女の手際の良さを見比べて、嫁を探す者たちは品定めをしていたそうだ。げんに、早乙女のタスキや帯の色は既婚者と未婚者とに色分けされていた、とのこと。

嫁さだめの第一条件に「手際の良さ」を重視したのは、家での仕事をまかせた時のためであり、やはり働き者が好まれた。盆踊りにも「田植え踊り」として踊られている。


地蔵寺の由来・縁起

そもそも当山の開祖、久室舜⻑禅師は延命第三世(吹屋の延命寺)で、正保二年(一六四五年)糸手の東南に堂を建て、これを糸手山地蔵寺という。『これより前、活龍という偉い僧が居り、鉄牛城主の兄弟で小林元貞が毛利方の将・清水某に捕の身となって、その館に居たとき、清水の愛妻が難産で医者もその手当てに困り容易にお産ができなかった。そこで元貞が事情を聞いて、産婦を見せよと云うので、産婦をみせたところ、これは獣脈(双生児のことか?)だと行って、呪い(糸を束ねてする)をし、励ましてやるように云ったら、すぐ生まれた。清水は大変喜び厚くもてなし、自分の家臣に勧めたが固辞するので、厚いはなむけを与えて捕の身を解く、元貞は武士をやめて活龍和尚に師事し、剃髪して庵を建て旧士の菩提を弔ったがこれが糸手堂(地蔵寺の下・市道の峠にある)の始まりであると云う』『安産の秘伝を授けたのが活龍という僧であり、元貞は活龍首座を尊敬していたと想像できる。元貞が死んでから何年もたち、糸手堂も火災にあい再建のとき、⻑屋の浪士二十余戶の者が相談し久室舜⻑弾師に頼み、堂を建立したのが今の地蔵寺である。

久室舜⻑禅師の法孫、龍冥和尚は植林したり、開墾したり、食糧を作って経営をたて、檀信徒にもこのことを勧めた、本来学徳の厚い人だったので檀家も増加し、寺もよくなった。檀徒が死亡し家が絶えたときなどは整理して寺に寄付したので、寺では⻑く祖零を慰め、豊年も祈った。元禄の半ば(十四年⻄暦一七〇一年)頃、南の方にある「初瀬観音大士」が⻑谷の上において不思議な霊験を表されるので、その佛の恵みは遠くまで響き仰がれること大変なものであった、無論当住職も学徳ともに優れた人であった。

私(二十一世恵舟大和尚)は、はじなくも二十一世を継いでいるが、なんと修業が足らない者だろう、その罪を感じ、ここに須弥檀を一基新設して無窮の佛恩に報いようと思う、何卒佛のいくしみをたれ給え。』以上は、古文書の中を解読されたものだそうです。※上記文中に「初瀬観音大士」があるが地蔵寺の観音様とつながり観音踊りにもつながっていると思われるし、そうあって欲しいものである。(地蔵寺位牌堂庫裏改築記念誌から)
※神社・仏閣の由来記は一般に古いものが多いと思うが地蔵寺は正保二年(一六四五年)で三四八年前なので信頼出来ると思う。
「新見市石蟹公⺠館郷土の歴史」より

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