音源

Songs

観音踊り・さんこ

かんのんおどり・さんこ

歌詞

Lyrics

さんこ


囃子 サーハイハイ/ ヨイヤナー、ギッチョンチョン x2

はせの観音様お陰がござる
三里四方から皆まいる

踊り上手に良い婿やろう
娘出てこい出て踊れ

ばあさま出てこいじいさまも踊ろう
観音踊りじゃ⻑生きじゃ

盆の踊りは糸手の山の
月も微笑む十七夜

さんこさんこと名は良いけれど
さんこさほどの器量じゃない

盆の十七夜は糸手の山は
観音踊りじゃ参りゃんせ

虫が踊れば踊りも弾む
櫓太鼓の音も弾む

月のでごろと約束したが
月は山のはにわしゃここに

歌も続くが踊りも続く
月の明るい夜も続く

音頭とる子が橋から落ちて
橋の下から音頭とる

咲いた桜に なぜ駒繋ぐ
駒が勇めば花が散る (せっかく咲いた桜に馬をつなぐなよという意味)

君と別れて松原行けば
松の露やら涙やら

色で迷わす味では泣かす
ほんにお前は唐辛子

今年豊年穂に穂がさいて
道のおぐさに米がなる

紺の前垂れ 松葉を染めて
松に紺とは気にかかる (安永年間に流行した上方小唄で、原唄は「紺の前垂れ 松葉をちらし」)

夢に見るようじゃ惚れようがうすい
ほんに惚れたら眠られん

さんこさんこと名は良けれど
さんこさほどの器量じゃない

盆の十七夜は糸手の山は
観音踊りじゃ参りゃんせ

はせの谷から糸手の山へ
おいでなされた菩薩様

はせの観音様お陰がござる
三里四方から皆まいる

踊り上手に良い婿やろう
娘出てこい出て踊れ

ばあさま出てこいじいさまも踊ろう
観音踊りじゃ⻑生きじゃ

かたいようでも__ではならぬ
とけて流れる雪だるま

信州信濃の新そばよりも
わたしゃあなたのそばが良い

もしも道中で雨降るならば
私の涙と思わんせ

遠く離れて切れたと見せて
たくりゃまた来るタコの糸

咲くが花かよ咲ぬが花か
咲ぬ蕾のうちが花

お月様さえ泥田の水に
落ちていく世の浮き沈み

糸手山から太鼓が響く
あれは地蔵寺の盆踊り

凡そ世間でせつないものは
惚れた紅葉に義理の二字

三千世界の鳥を殺し
主と朝寝がしてみたい

夏の涼みは石びのあたり
主を待つ間の蛍がり

石があかるく広瀬は小雨
⻑い縄手に虹の橋

石蟹通ればちょっとよりゃしゃんせ
石が粉になる金になる

⻑屋坂から石蟹を見れば
のぼり下りの汽車にバス

ハッパードンと鳴る広瀬の山に
あれは小野田の石の山

苦労する身はつゆいとはねど
苦労しがいのあるように

わたしゃあなたにこける程惚れた
今朝も三度見て 三度こけた

男蝶女蝶の盃よりも
好いた同士の茶碗酒

文の架け橋 音づれ絶えて
中を流れる涙川

むりに帰るを無理から止めて
むりを知りつつ言うたむり

末は袂を絞ると知らで
濡れて見たさの花の雨

九尺二問に過ぎたるものは
紅のついたる火吹竹

主にあう夜はうれしの森よ
いつもありたい首尾の松

来てはちらちら思わせぶりな
今日もとまらぬ秋の蝶

星の数ほど男はいても
月と見えるは主一人

お酒呑む人しんから可愛い
呑んでくだまきゃ なおかわい

苦労するほどすわ?る硯(すずり)
こいもうすいも主しだい

波に浮き草流れの身でも
少しや実もなる花もさく

十日もあわねば死ぬかもしれぬ
こんなに痩せてもまだ三日

蝶よ花よと育った身でも
手鍋下げるも主のため

あえてうれしや別れのつらさ
いっそあわぬがましかいな

お前百までわしゃ九十九まで
ともに白髪が生えるまで

井戶の蛙と笑えば笑え
花も散り込む月も見る

よいのくぜつにむり言い過ぎて
今朝の別れが気にかかる

「保存会同人 相吉武雄記 ⻄村伯夫保管」より

基本情報

Metadata

伝承地新見長屋地蔵寺
伝承者高瀬達夫
詞型7775

解説

Commentary

さんこ/さんこう節

『この歌は別名「一口音頭」とも言われ、簡単な「どどいつ」調の歌詞をつけて歌う。』阿哲⺠謡集1952年発行⻑谷川明編集『...起源については諸説あるが、出雲節という船歌が元歌といわれる。安来節の原調を歌いはじめたのは、安来の大塚順仙という鍼(はり)医者だというが、江戶時代末に鳥取県境港の芸妓さん子がこれを改良して歌い〈さんこ節〉として流行した。出雲一帯ではこれに手を加えて〈なぜまま節〉〈和田見節〉〈はまさだ節〉などの名で盛んに歌われた。...』

※「《さんこ節》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

【泥鰌掬】より
『...安来は江戶時代に砂鉄の積出港として栄えたが、安来節はその遊里での騒ぎ歌であった。曲の原調は〈出雲節〉とも〈さんこ節〉ともいわれるが、それを改良して安来で育ったのが安来節である。』安来節【⻄角井正大】
『出雲安来の芸者さん子の節つけしたるものにて安来節の一種』
阿哲郡誌より


地蔵寺の由来・縁起

そもそも当山の開祖、久室舜⻑禅師は延命第三世(吹屋の延命寺)で、正保二年(一六四五年)糸手の東南に堂を建て、これを糸手山地蔵寺という。『これより前、活龍という偉い僧が居り、鉄牛城主の兄弟で小林元貞が毛利方の将・清水某に捕の身となって、その館に居たとき、清水の愛妻が難産で医者もその手当てに困り容易にお産ができなかった。そこで元貞が事情を聞いて、産婦を見せよと云うので、産婦をみせたところ、これは獣脈(双生児のことか?)だと行って、呪い(糸を束ねてする)をし、励ましてやるように云ったら、すぐ生まれた。清水は大変喜び厚くもてなし、自分の家臣に勧めたが固辞するので、厚いはなむけを与えて捕の身を解く、元貞は武士をやめて活龍和尚に師事し、剃髪して庵を建て旧士の菩提を弔ったがこれが糸手堂(地蔵寺の下・市道の峠にある)の始まりであると云う』『安産の秘伝を授けたのが活龍という僧であり、元貞は活龍首座を尊敬していたと想像できる。元貞が死んでから何年もたち、糸手堂も火災にあい再建のとき、⻑屋の浪士二十余戶の者が相談し久室舜⻑弾師に頼み、堂を建立したのが今の地蔵寺である。

久室舜⻑禅師の法孫、龍冥和尚は植林したり、開墾したり、食糧を作って経営をたて、檀信徒にもこのことを勧めた、本来学徳の厚い人だったので檀家も増加し、寺もよくなった。檀徒が死亡し家が絶えたときなどは整理して寺に寄付したので、寺では⻑く祖零を慰め、豊年も祈った。元禄の半ば(十四年⻄暦一七〇一年)頃、南の方にある「初瀬観音大士」が⻑谷の上において不思議な霊験を表されるので、その佛の恵みは遠くまで響き仰がれること大変なものであった、無論当住職も学徳ともに優れた人であった。

私(二十一世恵舟大和尚)は、はじなくも二十一世を継いでいるが、なんと修業が足らない者だろう、その罪を感じ、ここに須弥檀を一基新設して無窮の佛恩に報いようと思う、何卒佛のいくしみをたれ給え。』以上は、古文書の中を解読されたものだそうです。※上記文中に「初瀬観音大士」があるが地蔵寺の観音様とつながり観音踊りにもつながっていると思われるし、そうあって欲しいものである。(地蔵寺位牌堂庫裏改築記念誌から)
※神社・仏閣の由来記は一般に古いものが多いと思うが地蔵寺は正保二年(一六四五年)で三四八年前なので信頼出来ると思う。
「新見市石蟹公⺠館郷土の歴史」より

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