音源

Songs

扇踊り「たまがき口説き」

おうぎおどり「たまがきくどき」

歌詞

Lyrics

「たまがき口説き」または「祐清(ゆうせい)たまがき口説き」

作詞:竹本 健司

これや過ぎにしい中世のころ
国は備中 新見の庄よ
若い代官 祐清様と
その身のお世話したたまがきの
奇しく悲しや 恋物語
今に残りて伝えてござる
これや由来を尋ねてみれば
京都東寺の荘園にして
時の代官奢りに耽り
年貢加役を厳しくなさる
それに加えて天変異変
日照り⻑雨 悪疫はやり
今は暮らしの困りに困り
村の役人三職様と
頭集めて 談合謀り
今の代官 御免でござる

お寺直務の代官様に
直に新見へお越しを願い
村の困窮見て下されと
申し状にて 嘆願申す
願い叶うて 葉月の初め
僧の代官 祐清様が
都の地より 新見の庄の
お政所(まんどころ)へ御下向なさる
今度来られた代官様は

白の帷子(かたびら)墨染め衣
肩にゃ絡子に錫杖(しゃくじょう)を突き
腰にゃ大刀 脇差帯びる
顔は色白細身の美男
年も若くて 一人身なれば
炊事洗濯 その身の周り
お世話しました 娘がござる

これぞたまがき惣追捕使(そうついぶし)の
福本様のその妹 御(いもうとご)
舞いに音曲(おんぎょく)読み書き優れ
器量よいこと 咲き出の花よ
やがてふたりは人目を忍び
水が低きへ流れる道理
日々に恋して契れる仲よ
さても月日は一年(ひととせ)過ぎて
またも葉月のその末の頃

仕事まじめの祐清様は
馬に乗っての領内めぐり
お供二人と差し掛かりたる
今を普請の真っ最中の
領地違いの名主の御前
馬を下りぬはご無礼なりと
因縁つけられ 切り捨てられる
そこで村人挙(こぞ)りて嘆き

いと懇(ねんご)ろにおまつりしたる
殊にたまがき 涙のままに
祐清様のお品をまとめ
書状したため 京都の寺へ
女心をお送り致す

これぞ名高きたまがき書状
触りだけでも口説いてみれば
ここに一筆 申し上げます
さてさてこの度 祐清様の
斯(か)くなることのお労(いたわ)しさは
とても口では表せませぬ
恥をも忍んで申するならば
私このほど 祐清様と
深く馴染んでおりました故
少しの物でも 形見と思い
それを生涯祐清様と
見参らせたく候なれば
一つに白の小袖が欲しや
二つに紬(つむぎ)の表が欲しや
それに布子(ぬのこ)の三つの品を
賜りますこと できますならば
いかに嬉しく あなかしくとや
書いては涙 涙で綴り
咽(むせ)ぶ心の切ない情け
文書とともにその名は残る
いわれ因縁 踊りに託し
ここに由来を口説いて残す

扇踊り 囃子 (ハー)アリャーサー、ヨーイヤナー

基本情報

Metadata

伝承地新見市新見/正田
詞型7777

解説

Commentary

東寺が新見荘を直接支配するにあたり、誰かを代官として現地に派遣しなくてはなりません。そこで東寺では代官の人選が行われ、⻄院御影堂で堂の番役や文書の管理に携わる三聖人の一人であった祐清という僧侶が派遣されることになりました。

祐清は寛正3(1462)年7月25日に京都を出発し、8月5日に新見荘へ到着、現地の百姓たちと面会しています。

東寺による直接支配が実現したことで、新見荘の百姓たちは祐清に大きな期待を掛けていたことでしょう。というのも、⻑禄3(1459)年から寛正2(1461)年にかけて全国的に大飢饉が襲い、祐清が下向した寛正3年8月、9月には新見荘で霜が降りるなどの異常気象が続き、田畠は大きな被害を受けていました。百姓たちは、祐清が被害を調査して、実状に応じて年貢の額を減らしてくれると信じていました。

ところが祐清は百姓たちの期待とは裏腹に、年貢を納めない者は「名を召し放つ」(田畑を耕作する権利を取り上げる)と、百姓たちに厳しい態度で臨んできました。祐清は百姓たちの窮状よりも、できるだけ多くの年貢を収納して代官としての実績を挙げようと意気込んでいたのでしょう。祐清にとって東寺の上層部が決めた寺命は絶対ですし、おそらく真面目で融通の利かない若い僧侶だったのではないでしょうか。

祐清は、「たとえ一命を失っても、年貢を納めない者は徹底的に処罰する」(ト函116号「備中国新見荘代官祐清注進状」寛正3(1462)年8月25日)という強い決意をもって代官の職務に臨み、年貢を未納のままにし続けていた名主・豊岡を追放するなど、半ば強引な方法で年貢を徴収しました。

その結果、荘内の百姓たちは祐清に対して不満を抱くようになり、やがてその不満が刃傷沙汰を引き起こします。
祐清が新見荘に赴任してから約1年後の寛正4(1463)年8月25日、祐清は馬に乗って中間2人を連れて荘内の年貢徴収に出かけていました。祐清が地頭方の相国寺善仏寺領を通りかかったところ、家を建築していた谷内という者から下馬しないのは無礼だと咎められます。すぐに祐清は馬から降りて非礼を詫びましたが、大勢が刀を抜いて追いかけてきたため、祐清も刀を抜いて応戦しました。

そこに、後から追いかけてきた谷内と横見という者が、一旦その場を収めました。祐清も「こちらも下馬したのだから、ともかくも...」と言って、構えていた刀を鞘に戻しました。すると次の瞬間、谷内と横見が祐清に斬りかかり、あえなく祐清は落命しました。谷内と横見は、祐清が乗っていた馬や太刀、具足、衣装までも剥ぎ取ったそうです。ちなみに、祐清を殺害した2人は、先に追放された名主・豊岡の親戚の者から頼まれて祐清を討ったということです。

殺されてしまった祐清ですが、そんな彼に好意を寄せていた女性がいました。

その名は「たまかき」。

「たまかき」は三職の一人である福本の姉妹で、代官としてやって来た祐清の身辺の世話をしていたと考えられる女性です。殺害された祐清の弔いを済ませた「たまかき」は、その遺品を整理した後、祐清の遺品の形見分けを所望する手紙を東寺へ送っています。この手紙は、中世の地方に住む女性が書いた手紙として稀有な資料です。彼女は手紙の中で、祐清が生前に所持していた品を目録として書き上げ、葬儀などの諸費用に充てたことを報告し、残った白小袖・紬の表(紬糸で織られた絹織物)・布子(綿入れ)の3品を、祐清の形見として貰い受けたいと願っています。
東寺百合文書WEBより

「扇踊り」は別名「エイト」と呼ばれていた。日本⺠謡大観いわく、「『エイト』は松山城主板倉勝澄公が、子弟教育と娯楽を兼ねて、伊勢松坂より踊りの師匠を招いて作ったものといわれている。扇を持って踊ることから別名『扇踊り』とも呼ぶ。」とある。
松山踊りの一種で、新見では松山扇踊りともいわれる。

Not Found 楽曲が再生されるのを待っています #新見 #盆踊り
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