音源

Songs

バンバ「芝居役者の小源の話」

ばんば「しばいやくしゃのこげんのはなし」

歌詞

Lyrics

今度大阪 道頓堀の
出羽が芝居は 大きなものよ
荷物揃えりゃ 三十と五だん
役者揃えりゃ 三十と五人
千両役者も 七人ござる
一に良様 二三郎様よ
こ弓貞様 千代貞様よ
一の大夫に万丈夫様よ
それに劣らぬ 吉川小源
小源十九で 若女形
女役者にゃ 第一番よ
時に勘兵ェが 宮島参り
参ったついでに 芝居を請けて
小源芝居と 請負って帰る
さあさこれから 行かねばならぬ
小源母親 一寸聞きとめて
これさ親方 勘兵ェ様よ
貴男宮島 行かれるそうな
うちの小源は 十九でござる
年の十九は 大やく年で
今年止めにして 来春行きゃれ
そこで勘兵ェが 申する事にゃ
小源芝居と 請負たからにゃ
小源行かねば 芝居にならぬ
小源命は 請負いまする
遣っておくれよ 母親様よ
小源命を 請負てもらや
連れて行かんせ 親方様よ
同じ大阪の 上新町に
幼馴染の お艶というて
それをお艶が 一寸聞きとめて
これさ吉川 小源太様よ
貴男宮島 行かれるそうな
安芸の宮島 良い女郎処
女郎や芸者が 袖妻引けば
わしが事を ばお忘れなさろ
連れて行かんせ わし諸共に
そこで小源が 申する事にゃ
安芸の宮島 明神様は
女嫌いの 大神様じゃ
待っておりゃれよ 来春戻る
さあさこれから 行かねばならぬ
芝居舟なら さぞ美しや
綾の幕張り 錦のほ上げ
舟の出たのが 三月七日

芝居舟なら さぞにぎやかな
小源三味引きゃ 勘兵ェが語る
かん兵ェ三味引きゃ 小源が語る
舟の着いたな 三月十日
着いて四、五日 お休なさる
休むその内 小源が病気
医者に医者かけ 薬は盛れど
薬盛れども 何うつつもない
そこで勘兵ェが 心配なされ
京で一番で 大阪で二番
江戶で三番 易者を頼み
易者様にと 占いもらおう
そうじゃそうじゃと 勘兵ェ様は
易者宅にと 早急がれる
易者様には お家であるか
易者様には 頼みがござる
千両役者の 小源でござる
舟に乗ったな 三月七日
舟の着いたな 三月十日
着いて四、五日 休養します
休むそのうち 小源が病気
医者に医者かけ 薬は盛れど
薬盛れども 何うつつもない
易者様には 占ておくれ
桟木霊竹 早取り出して
易者様には 占なさる
小源病気は 占のてあげた
風邪の引込み ほうその序病
東辺りて 女の思い
今は思いも 生霊となりて
所詮病気は 快きはならぬ
そこで勘兵は 思案にくれて
トボリトボリと 我家に帰り
寝とる小源の 障子をあけて
小源病気は 如何と言うて
小源病気は 占うてもろた
風邪の引込み ほうその序病
所詮病気は 悪いと言うた
そこで小源が 申する事にゃ
之も是非ない 運命のつきよ
私が死んでも 貴男が有れば
勘兵ェ芝居は 続いていくよ
もしも私が 死ぬ様であれば
肌につけたる 三十と五両
之は少うて 恥かしけれど
三十五人の 役者の衆に
小源かたみと 分けようておくれ

腰に差したる 短刀こそは
之は大阪の 父上様へ
小源かたみと 送りておくれ
肌に付けたる 白羽二重は
これは大阪の 母上様に
小源かたみと 送りておくれ
朝晩使うた 蛇たみの鏡
之は大阪の 上新町の
幼馴染の お艶が元へ
小源かたみと 送りておくれ
申したい事 数々あれど
最早かなわぬ 目が見えませぬ

「哲多町史」より

基本情報

Metadata

伝承地新見千屋花見
伝承者池田静雄
詞型7777

解説

Commentary

道頓堀の座元勘兵衛、⼜は芝居役者⼩源、⽯川⼩源なる⼈物、芝居役者⼀⾏についてはいずれも不明である。
新⾒でもよく⼝説かれるお話で、⿃取県⽇南町、名和町でも⼝説かれていた。

宮島歌舞伎(みやじまかぶき)

宮島での芝居興⾏は16世紀後半には⾏われていたといわれ、屏⾵絵などには神社周辺に仮設の舞台を設けている様⼦が描かれている。

宮島歌舞伎がいつ頃から始まったかははっきりしていないが、井原⻄鶴の『好⾊⼀代男』(1682年刊⾏)に、宮島への旅興⾏の歌舞伎芝居のことがでてくることからも江⼾時代の中期にはすでに歌舞伎芝居が⾏われていたことがわかる。芝居⼩屋は厳島神社の南側、ちょうど御本社の裏に設けられていた。6⽉の夏市(管絃祭)の宮島芝居は好評を博し、⽂政8(1825)年に全国の芝居興⾏地を番付仕⽴てにした「諸国芝居繁栄数望」では前頭五枚⽬に位置づけられ、宮島芝居は「親猿が、⼦猿をたんとつれて屋根のまどから芝居を⾒物するもおかし」とあり、その盛況ぶりをうかがわせている。

こうして宮島は歌舞伎のみならず、瀬⼾内海⻄部地域の芸能⽂化の中⼼地の役割を果たしていたのである。
「宮島の芸能と伝統⼯芸」より


ばんば(ばんばら)

新見市北部、その近辺で踊られているが、千屋ではすでに踊られていない。島根県安来市比田の「ばんばら」、鳥取県日南町多里の「松江」、新見市神郷高瀬の「松江(赤猫くどき)」、広島県庄原市口和町湯木の「番場」と同様。

日本⺠謡大観ではこの「ばんば」と白石踊との類似性を挙げ、京都本願寺の「チンバ踊り/顕教踊」を移入したのではと考えています。いずれにせよ、その時代の流行りの念仏踊りの形態が残ったものでしょう。室町時代の浄瑠璃の名残りとの示唆もあり。

島根県安来市比田の「ばんばら」は「(他の盆踊りに比べて)おそらく一番早くこの地方に伝わったのだろう」とのこと。
チンバ=片方の足に障害があって、歩くときにつりあいが取れないこと。


顕教踊

顕教をどりは、戦国時代に織田信⻑から逃れてきた僧、顕如(けんにょ)上人と教如(きょうにょ)上人を村人がかくまい、二人を慰めるために踊ったことが始まりとされる。村外不出の踊りとして、岐阜県揖斐郡揖斐川町春日美束や滋賀県米原市の甲津原などで伝えられてきた。ゆったりとしたリズムの唄に合わせ、両手で山の形を作る山登り、草木をかき分けるしぐさなどをするのが特徴で、輪になって踊る。踊りの名前「顕教」は、浄土真宗の顕教上人と教如上人の頭文字を組み合わせ、名づけられたそうです。

また、愛知県では善重寺に400年前より伝わると言われている。

顕教踊と同種の曲調のうたは、岡山県白石島など「瀬戶内海をはさんだ中国・四国両地方の沿岸部や島々」や、「山陰から九州の大分県のこれまた沿岸部」(⺠謡のふるさとを行く)など、瀬戶内海を中心とする⻄日本の沿岸部に点在しています。

たしかに、「白石踊り」の曲調は、チンバ踊り/顕教踊(念仏踊り)のそれとよく似ています。

WEB盆踊りの世界


白石踊

笠岡市白石島に古くから伝わる盆踊り・回向(えこう)踊りです。島⺠の暮らしと密接に結びついており、白石島を代表する文化の一つです。

踊りの最大の特徴は、一つの口説き(音頭)に合わせて何種類もの踊りを踊る点で、現在では、男踊・女踊・娘踊(月見踊)・笠踊・奴踊・扇踊・二つ拍子・大師踊・阿⻲(おかめ)踊・梵天(ぼんてん)踊・ブラブラ踊・鉄砲踊・真影(まかげ)踊と、13種類の踊りが伝わっています。それぞれ衣装や所作が異なる踊りが一つのリズムに溶け込んで調和を生み出す様子は、大変見応えがあり、見る人を惹きつけます。

白石踊の音頭は多数あり、最盛期には60以上もの唄があったと言われていますが、今日では20余りが伝わっています。代表的な唄は「那須与一」「石童丸」「丹波与作」「賽の河原」「山田の露」などです。

踊りの起源は、瀬戶内海で行われた源平水島合戦の戦死者の霊を弔うために始まったとも言い伝えられています。
笠岡市WEBSITEより

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